約2000年前の中国。中原を駆けた男たちは、それぞれの夢を追い、やがて死んでいった――。彼らのドラマはなぜ私たちを魅了し続けるのか。北方謙三氏は『三国志』(全13巻)で、前例のない人物描写に挑み、高い評価を得た。氏は英傑の生き様からなにを読みとったのか。

呉の将軍、周瑜公瑾は揚州の名門に生まれた軍略家で、「美周郎(びしゅうろう)」と謳われた美男。芸術的な才にも恵まれていた。孫策とは同い年。幼馴染の3人は「断琴の交わり」と呼ばれる兄弟の契りを結んで、終生の友情を育んだ。

<strong>周瑜</strong>●175年生まれ。字は公瑾。妻は小喬。孫策と同い年で、早くから親交を結んだ。赤壁の戦いでは呉軍の総司令官を務めた。だが戦いの直後、病に倒れ、36歳の若さで死亡した。若い頃より音楽に精通し、眉目秀麗だったとされる。
周瑜●175年生まれ。字は公瑾。妻は小喬。孫策と同い年で、早くから親交を結んだ。赤壁の戦いでは呉軍の総司令官を務めた。だが戦いの直後、病に倒れ、36歳の若さで死亡した。若い頃より音楽に精通し、眉目秀麗だったとされる。

蜀への肩入れが強い『演義』では貶められているが、周瑜の軍事の才もまた非凡だ。周瑜は長江を水軍でさかのぼって益州を確保して荊州をも支配し、中原(ちゅうげん)の魏を挟撃するという「天下二分の計」の戦略を持っていた。しかし、その戦略を共有すべき義兄弟の孫策は先立ってしまう。周瑜は後を継いだ孫権をもりたてて、水軍づくりと領内の鎮撫に尽力した。

そして208年、三国志最大の山場である「赤壁の戦い」を迎える。周瑜は呉軍の最高司令長官として曹操軍80万人と対峙した。ちなみに「赤壁」は地名ではない。風向きが変わるのを待ってから周瑜軍が放った火は、追い風に煽られて曹操の軍船に次々と燃え広がった。やがてそれは数千の船団すべてを焼き尽くす炎となり、対岸の岩山を赤々と染めた。何の変哲もない岩山が「赤壁」に変わり、戦いは終わった。

周瑜はわずかな勝機を見事に掴み取ってみせた。このとき33歳。2年後、戦いで受けた矢傷が悪化して短い生涯を終えている。赤壁の戦いは周瑜の人生最大の山場でもあった。

<strong>呂布</strong>●生年不祥。字は奉先。丁原、董卓と自らの主人を2人も斬り殺しているため悪役の印象が強いが、北方版『三国志』では随一の人気を誇る。常人離れした腕力を誇り、乗馬「赤兎」とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞された。
呂布●生年不祥。字は奉先。丁原、董卓と自らの主人を2人も斬り殺しているため悪役の印象が強いが、北方版『三国志』では随一の人気を誇る。常人離れした腕力を誇り、乗馬「赤兎」とともに「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と賞された。

世で悪人とされている人物をヒーローに仕立て上げるのが小説家の快感というもの。私にとって一番思い入れのある登場人物は後漢の武将、呂布奉先である。『演義』での描かれようはひどい。方天戟(ほうてんげき)を手に駿馬赤兎に跨り、暴虐の限りを尽くして誰からも恐れられる一方で、天下への野望なく、知略にも計画性にも欠け、性格はあまりに直情的だ。曹操に捕らえられて縛り上げられた呂布は命乞いまでする。これはおかしい。こんな人物に何千という兵がついてゆくはずはない――というのが最初の疑問だった。

そこで『正史』にある『呂布伝』を読み込んで、呂布と接触のあった人物の記録をタイムテーブルでつき合わせながら、呂布の行動を探っていくと、意外な実像が浮かび上がってきた。

たとえば家族愛の強さ。幼い頃に父親を亡くし、母親に育てられた呂布は父親の愛をまったく知らない。父性の概念を持たなかった。だから丁原(ていげん)と董卓、2人の養父をいとも簡単に斬り殺している。しかし、呂布は11歳年上の妻や娘をとても大事にした。呂布の老妻を見て哀れに思った董卓が宮廷の美女たちを与え、それを見た妻の具合が悪くなったとき、呂布は女たちの首をすぐに落とした。

こうした事実から呂布は「マザコン」だったと推測した。母や妻を喜ばせるためだけに戦い、そして勝つ。野心も謀略も必要ない。強いから、勝てるから、絶対に生きて帰れるという理由で部下も集まってくる。私なりの呂布像を思い描き、その行動様式を組み立てているうちに、呂布の侠気にますますほれ込んでしまったのだ。

董卓の死で都は混迷し、主導権争いが激化すると、謀略の怖さを知らない呂布は奸計によって都を追われ、逃亡する。手勢を率いて居場所を求めて各地を巡るが、最後には呂布の武に苦汁を舐めさせられてきた曹操の大軍に居城を取り囲まれて処刑される。絶大な存在感を示した呂布だったが、乱世に早々と散った。