カウボーイの成れの果て

男性の成長物語が語りにくくなっているのは、日本だけの現象ではありません。

ハリウッド製のホラー映画やパニック映画には、

「数かずの困難を克服し、最後までひとりだけ生きのびる女性」

日本文学研究者
助川幸逸郎

1967年生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、横浜市立大学のほか、早稲田大学、東海大学、日本大学、立正大学、東京理科大学などで非常勤講師を務める。専門は日本文学だが、アイドル論やファッション史など、幅広いテーマで授業や講演を行っている。著書に『文学理論の冒険』(東海大学出版会)、『可能性としてのリテラシー教育』、『21世紀における語ることの倫理』(ともに共編著・ひつじ書房)などがある。最新刊は、『光源氏になってはいけない』(プレジデント社)。
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がしばしば登場します。こうした女性キャラクターは、映画研究者のあいだでは『ファイナルガール』とよばれています。『悪魔のいけにえ』や『ターミネーター』、『バイオハザード』のヒロインが、「ファイナルガール」の代表的な例です。

「ファイナルガール」は、アメリカにおける「男の子の理想像」を体現した存在といわれています。彼女たちは、「あらゆることを自力で解決し、最後まであきらめない」という性質をそなえています。それは、開拓時代のアメリカ男性にのぞまれていたありかたに合致します。

かつてならカウボーイにでも託して描かれていた「男の子の理想像」が、どうして「ファイナルガール」というかたちで表されることになったのか。その背景には、前回(>>記事はこちら)にもふれた「大量生産の時代」の終焉があります。

農業や家内工業を営む家庭では、性による分業はあいまいです。労働も家事もおなじ場所でおこなわれるわけですから、男女ともその両方をやるのがふつうです。

「大量生産の時代」が到来し、大工場が生産の中心になると、労働者は特定の場所にあつめられるようになって、家事をやることがむずかしくなります。そこで「女性は家事、男性は労働」というぐあいに、性による分業が固定化したわけです。当然、「男らしさ」は「理想の工場労働者の像」と、「女らしさ」は「のぞましい専業主婦の姿」と、密接にむすびつけられるようになりました。

オイルショックが引き金となって、「大量生産の時代」に終わりが兆すと、男女の役割分担もゆらぎはじめます。当然、「男らしさ」や「女らしさ」のイメージにも変化が生まれます。このとき、より深く混迷に落ちこんだのは男性でした。

もっぱら労働を担当していた時代の男性には、能力や適性に応じて、働きかたをえらぶ自由があたえられていました。専業主婦になることをもとめられていた頃、女性にとってライフスタイルを選択する幅は、男性にくらべずっと狭かったといえます。性による分業がおこなわれなくなったことは、女性には「生きかたをえらぶ自由の増大」というメリットもあったわけです。いっぽう男性にとってそれは、「めざすべき理想像の喪失」というマイナスのみを強いられる体験でした。もともと女性に不利だった分担が解消されただけとはいえ、じぶんたちの「失墜」に、多くの男性はとまどうことになりました。

「ファイナルガール」がさかんにスクリーンにあらわれるようになったのは、オイルショック以後のことです。「大量生産の時代」が終わりにさしかかり、「男らしさ」をナイーヴに信じることができなくなったとき、「男の理想像」は女性に託されるようになったのでした。

「大量生産の時代」が終わったあと、どのようなかたちで成熟をめざしていけばいいのか、誰にも当てはまる答えはまだ見つかっていません。男性たちの混迷に、しばらく出口はなさそうです。こうした時代に、春樹や宮崎駿が「男の子の成長物語」を語りあぐねているのは、むしろ当然といえます。