信長が武田軍皆殺しを決めたワケ

そこで天正8年(1580)3月から、家康は高天神城の攻撃をはじめる。先の『家忠日記』によると、周囲に多くの砦を築いて包囲網を徐々に狭めながら、7月に武田方の小山城と田中城を攻撃。そのうえで9月から高天神城を総攻撃している。

狩野元秀画「織田信長像」賛・跋。原本は愛知県西加茂郡挙母町長興寺所蔵(写真=東京大学史料編纂所/PD-Japan/Wikimedia Commons

ただし、静岡大学名誉教授の本多隆成氏が「この頃になると、高天神城の攻略問題は、『天下人』信長の天下統一政策とのかかわりを強くもつようになっていた」と書いているように(『徳川家康と武田氏』吉川弘文館)、当初は対等の同盟相手だったが、すでに目上の存在になっていた信長の意向に、家康は従うほかなかった。

信長は天正9年(1581)正月、家康のもとへ水野忠重らを援軍に送り、正月25日付で忠重に朱印状を送っている。それによると、高天神城に籠城している城代の岡部元信ら武田方が矢文を送って、降伏を申し出てきたという。高天神城のほか小山城、滝境城(静岡県牧之原市)の譲渡と引き換えに、城兵の助命が嘆願されたようだ。

ところが、信長は家康に、岡部らの嘆願を受け入れずに高天神城への攻撃を続けるように指示した。

そうさせる理由を2つ、信長は記している。ひとつは、降伏できない3つの城を救いに勝頼が出陣してきたら討ち果たせばいい、というもの。もうひとつは、3つの城を救援せず見捨てることになれば、勝頼は一気に信頼を失って追い詰められる、という理由だった。

致命傷になった勝頼の「見殺し」

家康は信長の指示に従って、高天神城への攻撃を継続。一方の勝頼にとっては、もはや遠江における武田方の拠点としては、孤島のようになっていた高天神城への援軍は、リスクが大きすぎて手出しができない状況だった。

なすすべがない籠城衆は3月22日、最後に打って出るが、岡部元信ら大半が討ち死にして落城。家康は7年ぶりに高天神城を奪還した。『信長公記』によると、脱出できずに犠牲になった城兵は688人におよび、その後は信長が予想したとおり、高天神城を見殺しにした勝頼の評判は著しく落ちたという。国衆や家臣たちが次々と離反したのである。

遠江攻略の拠点として、高天神城を守ることにこだわって、勝頼はみずからを決定的に追い詰めることになったともいえる。また、父の信玄を上回る器量の持ち主だったとの評もある勝頼でも、信長の残酷だが冷徹な戦術に敵わなかったともいえるだろう。