なぜ「科学」という言葉を使わなかったか
――お伺いしたいのは、この本を書かれた動機です。こちらの仮説は、世間で語られているマーケティングというものに対して、石井先生になんらかの危機感、焦燥、もしかすると怒りがあったのではないか、と。
石井 この本で避けている言葉は「社会科学(social science)」です。本の中では、代わりに、「社会の理論」という、ほとんど定義されていない言葉を使っている。「社会科学」と言ってしまうと、それは緻密で、精密で、予測可能性を重視した、しかしあまり大きい社会変動の問題を扱えない自然科学を模倣した「サイエンス」を連想してしまう。でも、それだと、理論化の広がりは狭くなってしまって、社会についての理論化には、物理学か数学の応用でしかないようなイメージが濃くなってしまう。私は、それとは別の流れ――マーケティング研究の世界で言えば、内部者の視点で考える、いわば企業の実務家の視線で考える研究の流れ――が、ありうると思うんです。
ところが最近は、そちらの流れがあまり元気がない。とくにアメリカではゲーム理論や経済学的な考え方でマーケティングのことを研究しているような人が主流になっています。以前、バークレー(カリフォルニア大学バークレー校)というところはアメリカのマーケティング研究の総本山のようなところで、「マーケティングとは何か」ということを考える人が多かったので、日本からも多くの研究者が訪問していました。グレッサー先生をはじめ、ニコシア先生のような先生がおられました。しかし、今では経済学の先生ばかりという状況に変わっています。
ジュリアン・グレッサー(Julian Gresser)
1943年ニューヨーク生まれ。ハーバード大学、カリフォルニア大学バークレー校卒。MITなどの教授を経て、国際弁護士、ネゴシエーターなどとして幅広く活躍。
『意思決定5つの法則』
徳間書店/本体価格1600円
■ニコシア
フランセスコ M.ニコシア(Francesco M. Nicosia)
1927年イタリア生まれ。消費者行動研究の第一人者。ローマ大学、スタンフォード大学などを経て、59年からカリフォルニア大学バークレー校で30年近く教鞭を執る。1997年没。
『消費者の意志決定過程』
東洋経済新報社/本体価格3400円
石井 アメリカのマーケティング研究は、しばらくはこの流れが続くのではないかと思います。今、企業の人たち、ビジネスの現場にいる人たちと一緒に物事を考えてやってみようなんて思っているのは、ハーバードとMITくらいじゃないかな。ところがハーバードとMITは、ビジネスの実務家からは評価が高いのですが、アメリカのマーケティングや経営の学会ではあまり評価は高くない。今では、数学モデルやゲーム理論、統計分析といったもので、学会で名を成していかないことには大学に残れない。
――アメリカはなぜそうなってしまったんですか。
石井 佐和隆光さんが以前言われた「研究の制度化」ということなんでしょうね。研究の方向が、より精緻な数学モデルや分析という方向に一旦定まってしまったら、そのほうに流れが向いてしまうという。そうした研究が、どれだけ現実妥当性が高いのかということは、あまり強く意識されないんです。オリンピックの100メートル競走のようなものですね。100メートルを9秒で走ったからといって、現実世界の何が変わるわけではないのだけれども、そういう競争の場が準備され、参加する人が出てきて、資源がつぎ込まれ始めると、そこで勝利することが多大の価値を持つようになる。そんな風ですね。
立命館大学大学院政策科学研究科教授、京都大学経済研究所特任教授。
1942年、和歌山県生まれ。1965年東京大学経済学部卒業。専攻は計量経済学、統計学、環境経済学。
《「制度化」された 経済学の功罪》
(財団法人日本学術協力財団 月刊「学術の動向」)
PDF http://www.h4.dion.ne.jp/~jssf/text/doukousp/pdf/200705/0705_8485.pdf