『マーケティング思考の可能性』とはどんな本か?
経験や勘にとどまっていた「商売のやり方」を、科学理論に基づくものに進化させる。それが今日まで積み重ねられてきたマーケティング研究だった。過去の経験を理論化し、明日の企業行動に活かすケーススタディの発達はその典型的な例だろう。
だが、理論は「人が実際にビジネスの現場で行うこと」をすべて先回りして説明できるのか。科学的なものの考え方は、実際の企業の行動を、経営者が為した判断を、すべて説明できるのだろうか。
この問題意識は、人が実際にビジネスの現場で行うことを研究し続けてきた(特に日本の)マーケティング研究者たちの間で強まってきている。科学的な精度を高めるだけでは説明できない「実践」の奥深さ、そこに気づいた研究者たちは、今、マーケティングというものの考え方を、次の段階へと深めようとしている。
マーケティングは「科学になること」だけがその目指すところだったのか。科学だけでは解き明かせない現実を前にしたとき、マーケティングには何ができるのか。マーケティングが次の時代の可能性を手に入れるために、研究者は、そしてビジネスの世界で生きる者は、これから何を考えていけばよいのか。
今日まで積み重ねられてきたマーケティング研究の足跡を確認し、目先の問題解決ツールにとどまることなく、より広く深いレベルへと、マーケッターたちの「考える力」を刺激する1冊。
大きな書店の「マーケティング」の棚には必ずある、日本のマーケティング研究の第一人者・石井淳蔵先生の最新作だ。だがこの本、「マーケティング」と題にある他の本と比べると、奥行きと広がりがちょっと違う。なにせ第二章のタイトルが「ものに価値は内在するか」。小見出しを見ると「テレビは冷蔵庫か?」「これは,〈堅くない〉のか?」。哲学書? 言語学? だが、時折現れる企業の実例(ビジネスの現場で働く者なら、誰でも実感できる事例だ)に助けられ、ゆっくりと読み進めていくと、日々の仕事に追われるうちに脳味噌の中で眠らせていた部分が、やたらと刺激される。石井先生、忙しいビジネスパーソンこそ、こういう本が必要だと思うのですが。
「そういう読者は、今でもおられますか。うれしいことですね」
――あとがきに「研究者でない読者にはいささかわかりにくいところがあったかもしれない」とお書きでした。この本の想定読者は、若いアカデミシャン(研究者、学者)なんですか?
石井 うーん、自分では、マーケティングのさまざまな学説の中から、マーケティング研究の核心となる概念、そしてその潮流を浮き彫りにしたいと思って始めたものです。したがって、年齢は関係なく、読んでいただけるのはマーケティングの研究者だと思っているんですけれどね。
前に書いた『ビジネス・インサイト』は、ビジネススクールに行っている人、行こうと思っている人、行った人向けに、研究するとはどういうことか、それは日ごろの経営・マーケティングの実践とどのような関わりにあるのかを書こうと思っていました。ところが、誰に向けて書いたのか意図がはっきり伝わらなかったためか、誤解されたところもあって、できれば読者はだれかということを理解してもらうことは大事だなとは思っています。
――『ビジネス・インサイト』のタイトルにはマーケティングという言葉が入っていません。今度は入っています。書店店頭でどこの本棚に挿されているかを見てみると、実際、マーケティングの棚に挿さっています。マーケティングの棚にあって石井先生の本ですから、たとえば『ビジネス・インサイト』や『マーケティングの神話』を読んだというビジネスパーソンが、この本に遭遇する可能性は絶対ありますし、読み終わると、ちょっと違うビジネスパーソンに変わっているように思えるので、私は今日インタビューにお邪魔しているわけです。
石井 この本を普通の読者に読んでもらえるとは思っていなかったけれど(笑)、そういっていただけると、うれしい限りです。二章の議論が少し哲学的な議論になっていて、こうした議論に対して、何か面白そうと興味を持っていただけるような方に、読んでいただけたらうれしいです。ですが、逆にそこで、そこで、「こらあかんわ」と諦める方も少なくないと思います(笑)。
――二章には確かにびっくりしました。「マーケティング」というタイトルで手に取ったビジネスパーソンは、実在論について書かれたこの章で諦めちゃうのかもしれません。ただ、二章は確かに難解ですけれど、わずか14ページ。ここで諦めずにゆっくりと読むと、〈偶有性〉や〈他者の中に棲み込む〉といった、あとで出てくる重要なキーワードが頭に入る。先生は「諦めてもらおうと思って」とおっしゃいましたが、大学時代に、ちょっと気取って難しめの本をかじっていた人は、ビジネスパーソンの中にも一定数います。特に今の30代半ばから下、景気の良い日本を知らない方々は、けっこう難しめの本をちゃんと読んでいるように思うのですが。
石井 そうですか。そういう読者は、今でもおられますか。うれしいことですね。本が読まれなくなったという印象があります。大学の先生でも、研究が細分化されたせいもあって、自分の分野以外でどれだけ読んでいるのかなあ。
『ビジネス・インサイト』でも述べたのですが、私の書いた意図を超えるような、思いもしない意味を読者が見つけてくれて、「そういえばそういう風にも解釈できるのか」ということがあれば、楽しいことですね。著作を通じての読者との対話というと、そこにあるのでしょうね。