秀吉の命を受けた小西行長や加藤清正は、朝鮮半島に上陸後、破竹の勢いで進軍。開戦からたったの21日で都の漢城(ソウル)を落とし、さらに北上して平壌(ピョンヤン)も落とします。
第14代朝鮮王の宣祖(ソンジョ)は民を捨てて、漢城から平壌へ逃げ、さらに平壌から中朝国境の義州へ逃げました。その義州も安全ではないことがわかると、宣祖は中国の明(みん)へ亡命しようとします。しかし、ここで宰相の柳成龍は、「今、朝鮮を一歩離れれば、朝鮮を失ってしまいます」と反対しました。
柳成龍は明に援軍を要請する一方、王が明に逃げてしまえば、明の傀儡(かいらい)に堕すると警戒したのです。明の属国であった朝鮮は、秀吉軍の襲来という大きな国難を前に、宗主国の明に頼らざるを得ませでした。しかし、「王が中国に身を預けるようなことをすれば、朝鮮王朝は終わってしまう」と柳成龍は考えたのです。属国なりの矜持といえるでしょう。
「支援」とは名ばかりの明の援軍
朝鮮半島に侵攻した秀吉軍は16万でした。柳成龍らの要請に応え、宗主国であった明は援軍を派遣しましたが、その数はたったの5万でした。しかも、派遣軍の兵糧の負担は朝鮮側持ちというケチぶりです。
明軍はケチな上に悪辣でした。朝鮮は飢えに苦しんでおり、明の莫大な兵糧の要請に応えられませんでした。そのため、明軍は兵糧調達と称して、現地で手当たり次第の略奪に出ます。さらに明の将軍の李如松(り・じょしょう)は、朝鮮側が兵糧提供の義務を果たさないことを「約束が違う」と激怒し、柳成龍ら朝鮮の大臣を呼び出し、ひざまずかせ、怒鳴り上げました。柳成龍たちは泣きながら、李如松に許しを請ったといいます。これが明の「支援」の実態でした。
結局、朝鮮は民衆から食糧を強制徴収する羽目になりました。餓死寸前に追い込まれた民衆は各地で反乱を起こし、日本軍もそれに巻き込まれました。
柳成龍のような朝鮮の指導者は、中国からどんな仕打ちを受けようとも、ひたすら我慢し、中国に依存しました。依存せざるを得ないが、信用はできない。朝鮮にとって中国とは、大昔からそういう存在だったのです。