国が全面的に責任を持って高齢者介護を行っていれば、今回のような悲惨な火災事故は避けられたはずだ。国の責任で高齢者が過ごしやすい最適地に介護施設をつくる。あるいはグリーンピアやかんぽの宿を叩き売るくらいなら、すべて高齢者施設につくり変えればいい。

国が運営する施設ならモグリはないから、フィリピン、タイ、インドネシアなどで訓練を積んだ外国人介護士や看護師も受け入れやすい。法律一本通せばできることだ。沖縄の島など温暖なところに介護特区をつくって、外国人の介護士や看護師が自由に働けるようにしてもいい。

その際、日本語のペーパー試験にこだわる必要はない。認知症や寝たきりの高齢者介護で求められるのは、言葉によるコミュニケーションより、優しく食事を与えたり、丁寧に入浴や排泄の世話をしてあげることだろう。そして、いざ火事というときに安全に運び出してくれれば、言葉など重要な問題ではなくなる。

高齢者介護の問題も含め、都道府県や市区町村の入り組んだ権限を整理し、国と地方、地域の役割分担をもう一度仕切り直せばいい。だが、それを難しくしているのが、全国市町村にベッタリと張り付いた日本独特の利権構造である。

西松建設の問題でも明らかになったように、地方に無駄な空港ができる最大の理由は、空港建設のゼネコン利権がそこにあるからだ。私が住んでいる千代田区にも行政に食い込んでいる利権屋がいて、たくさんの高齢者が入居待ちの状態であることを無視して、破格の超高級高齢者施設をつくっている。

ゴミの収集や焼却などを見ても、複数の市町村で一緒にやったほうがよほど効率的なのに、業者の利権になっていてそう簡単には手放さない。

水道も利権である。東京の水は幸い都が管理しているが、関東広域で一括管理すれば、江戸川の下流で活性炭を限界まで使った浄水ではなく、利根川水系や渡良瀬遊水池の美味しい水を都民も飲めるようになる。九州の福岡は毎年夏場に水不足で悩まされるが、九重山を隔てた大分県は悩んだことがない。道州制にすれば福岡の水不足はたちどころに解決する。

このように、我々の生活の安全と安心にかかわる行政サービスは、大きな行政区でやったほうがいいものもあれば、小さな行政区でやったほうがいいものもある。

しかし日本の統治機構は、戦後半世紀以上が経過し、歪みが拡大し続けた結果、生活者にとってひどく使い勝手の悪いものになっている。大山鳴動して行われた市町村合併も、気がついてみれば行政サービスの向上どころか、西松事件に象徴されるように、ますます利権の巣窟になって身動きが取れなくなっている始末なのだ。