寵臣・田沼意次が民間の医師を将軍の担当に

さて、老中・田沼意次が推薦した民間の医師・日向陶庵と若林敬順ですが、同月19日に新たに召し出されて、奥医師に就任しています。それに伴い2人は俸禄200俵を賜ることになったのです。19日から新奥医師の若林敬順が薬の件を担当していましたが、家治の病状が良くなることはありませんでした。よって奥医師の大八木伝庵が再び薬を調合し、進上するようになったと言います。

田沼意次の肖像画(勝林寺蔵)
田沼意次の肖像画(勝林寺蔵)(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

これが8月20日のこと。大八木伝庵に代わってから家治の病状は少し良くなったようですが、26日の暁にはまた病が重くなったと『徳川実紀』は記します。群臣は登城し、家に帰らなかったとあります。いよいよその時が迫りつつあると皆、感じ取ったのでしょう。新たに奥医師に採用され、俸禄200俵を支給された日向陶庵と若林敬順ですが、8月28日、解任されています(俸禄も収公されました)。残念ながらあまり役に立たず、解任されたのでしょう。

死去したのは8月25日と9月8日のどちら?

『徳川実紀』には9月8日に家治薨去の記述がありますが、それまでにも群臣や御三家が将軍の見舞いに訪れていたことが散見されます(例えば9月3、4、6、7日)。世子の徳川家斉やその父の一橋治済も病気見舞いのため、登城していました。『徳川実紀』の記述を見ていると、当然ながら家治は9月8日まで生きていたと思うでしょう。