“闇将軍”田中角栄の下へ
パチンコ店から、日比谷高校脇の坂道を歩いてのぼり、永田町の議員会館を訪れることも多かった。もちろん、周辺に点在する国会議員たちの個人事務所に足を運ぶこともあった。静岡県選出の国会議員から紹介してもらうなどの手を打った。やがて、この時代に最大の権力を持った男の下を訪ねる。
「田中先生、中小企業をお助けください」
「君が鈴木修君か」
屋敷中に響く、どでかい声だった。
「はい、田中先生。お願いでございます、どうか、中小企業をお助けください。排ガス規制で苦しんでいます」
「うーん、で、君んところの会社は、従業員は何人おる」
「ハッ、9500人ほど勤めております」
「なに、そんなにいるのか。中小企業なんかじゃないだろ。大企業だ」
「田中先生、自動車会社の中では一番小さな、田舎の会社でございます。力はありません」
「そうなのか……。新潟県には、君、1000人の会社しかない。9500人の会社を潰したら、そりゃ社会問題だ。浜松は大変なことになる」
「ハイ」
「ヨッシャ、わかった! できる限りのことはしよう」
「ありがとうございます」
田中角栄は1974年12月に首相の座を降り、鈴木修の訪問を受けた後の76年7月にはロッキード事件に絡んだ受託収賄罪と外国為替・外国貿易管理法違反の疑いで逮捕され、自民党を離党し8月に保釈される。それでも、政界、官界に隠然たる力を持ち続けていく。“闇将軍”と呼ばれ、むしろその力を増していったといえよう。
スズキのための別枠を確保
霞が関と永田町へのロビー活動により、2サイクル軽自動車に対する規制の実施は延期されていく。
当初の75年規制は、78年からの施行となる。その間、1976年4月1日より77年9月30日までに製造される2サイクル軽自動車には、暫定措置として緩い規制値が適用された(HC排出規制値が本規制の0.25g/kmに対して4.5g/kmに大幅緩和された)。75年暫定規制として、76年規制内に別枠で設けられる。これはスズキのためだけの別枠だった。
ところが、緩和された規制値をスズキはなかなかクリアーできず、湖西工場は76年4月と5月に軽乗用車の生産を停止する。
ようやく開発された新型触媒を装着した新型車「フロンテ7-S」が暫定規制値対応車として認定されたのは5月29日。6月に同工場の生産は再開されるが、新型車を販売できるのは77年9月まで。本規制値をクリアーできる触媒の性能アップは必須となる。
一方で75年9月、当時の運輸省は道路運送車両法を改正し、翌76年1月から軽自動車の排気量を360㏄から550㏄に、サイズも一回り大きくすると公布する。排ガス対策による出力ダウンへの対応、浄化装置取り付けスペースの確保が、規格改定の目的だった。つまりは、環境対応からこのとき以降軽自動車は大型化していった。


