原子力を普及し、CIAの協力者だった読売トップ

私の父親は戦前から読売に入り、読売一筋に生きた人だった。お銚子半分も飲むと酔ったが、そんな時よく、「俺は正力さんと一緒に印刷現場で働いたことが誇りだ」「読売争議の時にアカを追い出してやった」といっていた。生きて今の読売を見たら何というだろう。

正力氏はいち早くテレビの可能性に目をつけ、1953年に日本テレビ放送網の本放送を開始し、プロレスやプロ野球の普及に尽力した。

しかし、1955年、アメリカの「平和のための原子力」プログラムを読売のトップで大々的に紹介し、そこから原子力の普及にのめり込んでいく。その年、正力氏は衆院選に出馬し当選。翌年に原子力委員会の初代委員長に就任するのである。

また氏はCIAの協力者であったことが、アメリカに保管されていた公文書により判明している。

このように、後年は新聞経営には関心を失っていくのだが、「大正力」と奉られていた独裁ぶりは衰えなかった。

その一つが「正力物」といわれる“名物”コーナーであった。当時読売社会部の記者だったノンフィクション作家の本田靖春氏が『我、拗ね者として生涯を閉ず』(講談社)でこう書いている。

“社長案件”が続いて読者からも苦情が

「正力物というのは、主として、正力が号令をかけて推進する、読売グループの企画や事業を、その進捗状況に応じて逐次、社会面に掲載する記事のことである。

その他に、正力の許に表敬訪問などでやってくる内外の要人や『賓客』の来訪の主旨も社会面の記事にする。これら正力物は、ひどいときには、それこそ三日にあげず、紙面に登場するのであった」

当然ながら、現場の記者たちは無条件でそれを受け入れていたわけではない。そこで、正力氏の住んでいる神奈川県逗子市に配布される版だけ三段扱いにし、ほかの版はベタ記事にするという姑息なやり方をしたというのである。

当然だが、読者からも苦情の電話が殺到した。本田氏は、正力氏の新聞の私物化に声を上げたが、同調者は一人も出なかった。本田氏は、「自分が現に関わっている身内的問題について、言論の自由を行使できない人間が、社会ないし国家の重大問題について、主張すべきことをしっかり主張できるか」と考え、読売を去った。

しかし、次の務臺光雄氏の独裁ぶりは正力時代を超えた。“新聞が白紙でも売ってみせる”と豪語し、読売を日本一の部数に押し上げた。

だが、社内に自分を批判する者がいないかスパイを置き、自分を脅かす存在になってきた氏家齋一郎氏を日本テレビに放り出し、そこも首にしてしまった。

現在の大手町の社屋を国から払い下げてもらうために時の総理に談じ込み、「やらないなら読売の総力を挙げて叩いてやる」といったのは有名な話だ。