学校では「総理」と呼ばれる
ここで、「二十世紀最大のスパイ」といわれるゾルゲの略歴を紹介しておこう。一八九五年、石油業を営む裕福なドイツ人の父とロシア人の母の混血としてアゼルバイジャンのバクー郊外で生まれたゾルゲは、三歳の時、一家でドイツに移った。ベルリンでの少年時代について、ゾルゲはこう回想している。
「富裕なブルジョア階級にみられる平穏な少年時代を過ごした」「運動競技や歴史、文学、哲学、政治学では、クラスの誰よりも抜きんでていた」「時事問題は普通の大人よりもよく知っており、学校では『総理』と呼ばれた」「父は正真正銘の国家主義者だったが、私は政治的な立場はなかった」(獄中手記)
一九一四年に第一次世界大戦が勃発すると、学校生活への嫌気や戦争への興奮からドイツ陸軍に志願し、戦場で三度負傷する。入院中、従軍看護婦とその父の手ほどきで社会主義理論に目覚め、マルクスやエンゲルス、ヘーゲル、カントを読みふけった。
一七年のロシア革命に衝撃を受け、ドイツ共産党に入党する。「ロシア革命は私に国際労働運動の採るべき道を示してくれた。私は理論的、思想的に支持するのではなく、現実にその一部となることを決意した」(獄中手記)
スパイ時代の盟友は朝日新聞記者
大学院で政治学博士号を得た後、ドイツで活動中、世界革命を目指すコミンテルン(国際共産党)代表団の接待やボディーガード役を務めた。その時、コミンテルン幹部のオシップ・ピャトニツキーらに認められ、本部スタッフとして働くよう勧誘される。
二五年にモスクワに移り、ソ連共産党に入党した。しかし、コミンテルンでは文書仕事ばかりで、革命運動への限界を感じていた矢先の二九年、軍参謀本部情報本部にスカウトされ、三〇年からスパイとして上海支局に赴任する。
三年間の上海勤務では、朝日新聞記者の尾崎秀実や米国人左翼ジャーナリスト、アグネス・スメドレーらの協力で情報網を築き、中国の軍事情勢や国民党の動向、日本の中国政策に関する情報を入手。中国共産党との連絡役も務めた。
帰国後、モスクワでの研修を経て、三三年九月に東京に着任。ドイツ紙「フランクフルー・ツァイトゥング」の特派員を隠れ蓑に八年間活動した。この間、ドイツ大使館に食い込んでオイゲン・オット大使や武官らと親交を深め、有力な情報源とした。