シンガポールでゴム園を経営、ホテルの女性支配人として成功

フォックスは春代を残し、1914年に始まった第一次世界大戦に出征する。

フォックスは、「自分は戦争で死ぬかもしれないから」と春代に日本に帰るよう促したが、春代は「働いてもっとお金を稼ごう」とシンガポールに残った。26歳頃、フォックスから得た資金などでゴム園を購入し、中国人らを雇って運営する。その儲けを元手に、30代半ばでホテルを建て、経営に乗りだす。嶽本氏が指摘するとおり、シンガポールなどでの日本人の活動についてまとめた『南洋の五十年シンガポールを中心に同胞活躍』(南洋及日本人社編、1938年)の人名録には春代の実名が記載され、ホテルを経営していたとの記録が残っている。

事業者として成功を果たした春代だが、恋愛小説のようなエピソードも明かしている。「三十代まできれいだった」という春代は、フォックスがいない間に日本人男性から熱心に言いよられたという。仲立ちからしつこく迫られて断り切れず、「フォックスが戦争から帰ってきたら別れてもよい」と言われて、その男性の「内縁の妻」になったが、数カ月後にフォックスが生還する。約束どおりその男性と別れ、ふたたびフォックスと暮らし始めるが、男性との関係を知ったフォックスから突然別れを告げられる。フォックスはイギリスに帰国する。春代は、その帰国の前夜にフォックスから、「戦争中、敵兵と一騎打ちとなった場面で春代の姿が見え、導かれて敵兵に勝つことができた。春代ともう一度暮らすことが夢だった」と言われたと語る。

シンガポールで稼いだ金を宝石に換えて引揚船に乗ったが…

ひとりになった後もホテル経営は順調だったが、太平洋戦争の開戦を機に客が減り、閉鎖を余儀なくされる。そして戦中、シンガポールなど東南アジアに住む日本人は、イギリスによってインドに抑留された。春代も「インドのキャンプ(収容所)にいた」と語っている。春代は、終戦後の1946年頃にインドから帰国した。

牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)
牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)

宮崎康平の未完の小説『からゆきさん物語』で妻・和子さん執筆のあとがき(『からゆきさん物語』の出版にあたって)によると、ホテル経営で得た財産を宝石に換えて引揚船に乗ったが、その後だまされてほぼすべてを失ったと明かしている。帰国後は島原で近所の子どもの面倒を見るなどしてわずかな収入を得て、亡くなった妹の子どもを育てたという。

以上が、主にテープで語られた「からゆきさん」の声の概要だ。

春代の最晩年の様子はよくわかっていない。春代の墓に刻まれた没年によると、インタビューから6年後、80歳頃、その生涯を閉じた。

春代は最期の時、何を思ったのだろうか。

【参考記事】毎日新聞 「1日で49人の相手を…」 過酷な労働、波乱の人生赤裸々に 「からゆきさん」肉声テープ発見

牧野 宏美(まきの・ひろみ)
毎日新聞記者

2001年、毎日新聞に入社。広島支局、社会部などを経て現在はデジタル編集本部デジタル報道部長。広島支局時代から、原爆被爆者の方たちからの証言など太平洋戦争に関する取材を続けるほか、社会部では事件や裁判の取材にも携わった。毎日新聞取材班としての共著に『SNS暴力 なぜ人は匿名の刃をふるうのか』(2020年、毎日新聞出版)がある。