※本稿は牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)の一部を再編集したものです。
120年前、16歳で長崎からシンガポールに密航した女性
春代(仮名)がシンガポールに向かったのは16歳の時だった。生前、録音されたテープには、シンガポールへ行くまでの経緯や、密航した船のなかの様子、娼館での労働環境、娼館を出た後の生活などが島原の方言で詳細に語られている。テープの内容を基に作った『戯曲 珈琲とバナナとウィスキー ~宮﨑康平、からゆきさんの話を聞く~』(内嶋善之助作、2019年)や、嶽本新奈氏(お茶の水女子大学ジェンダー研究所特任講師)の学会発表資料「シンガポール・マレーシア半島における日本人女性の経験――ある『からゆきさん』の生涯をてがかりに」(2020年)、上記資料と内嶋さんや嶽本氏への取材などから、以下、春代の言葉を伝える。
〈私の父は神経症でしたから働けんでねえ……〉。
貧しかった。家族は父、母、妹ふたり、弟ひとりの6人。父は神経症〔精神性疾患〕のため働けず、春代は10代前半から奉公に出され、島原の揚屋〔遊女を呼んで遊興する店〕で下働きをしていた。
16歳の時に母親が死亡すると、家計を支えるのは春代ただ1人に。揚屋の給金では到底足りない。そんな時、銭湯で見知らぬ高齢女性から、「高い給金が出る。遠いところに行かないか」と誘われ、外国行きを決意する。
密航船で暴行されないように汚物を顔に塗り、身を守った
春代が斡旋する女銜と呼ばれる男性たちの手引きで、シンガポールに密航したのは1904年。日露戦争開戦の年だ。
春代は、島原の港から24人の若い女性たちと4人の男性と大型船に乗りこみ、石炭などを積んだ船底部分に身を潜めた。この港が口之津だ。
春代がやって来た当時の口之津は、三井三池炭鉱(福岡県)の石炭の積み出し港でもあった。
春代らが人目につかぬよう、船に乗りこんだのは真夜中だった。
船底はひどい状況だった。暗闇で便所もなく、汚物は垂れ流し。航海は約1カ月続き、世話役の男性が女性たちに性的暴行を加えることもあったという。春代は自分の体に汚物をつけることで暴行から逃れた、とテープの声は語る。
〈私も狙われたですが、「ここでやられて、たまるか」と思うて、そこら辺にあった汚れを手えで顔にぬすくったとですよ。ウジがわいとったば汚ればですたい。それで、私はやられんやったです〉
不衛生だったため、生理の際には陰部にウジ虫がわいたという。
〈月のもんがあっても、あそこに詰めるもんも、拭くもんもなか。小便も糞もあるもんですか。みんなその辺にするわけです。その臭いの臭くないの、お話にならんですよ。船の底は、地獄ですよ。よおう生きとったと思います〉
あまりに劣悪な環境のため、到着までに命を落とした女性もいたという。