※本稿は牧野宏美『春を売るひと 「からゆきさん」から現代まで』(晶文社)の一部を再編集したものです。
娼婦との行為中に「うれしかろうが」と確認してくる日本人客
春代(仮名)は、客についても言及していた。宮崎が「中には外国人で助平がいたでしょう」と尋ねた際は、それをきっぱりと否定した。
〈いやあ、やっとだない、やっぱ、そうでしょう旦那さん。まあ、正直のあらたまりよう。学問のあるやつやっけんね、やっちゃにゃしません〔ひどいことはしません〕。〔外国人が〕やっちゃにするっちゅう人は、こりゃ間違うて言いよる人。絶対です。絶対、あのごめんなさいよ。日本人が隠れとる。怒っちゃくれますまいな。そして、日本人の人はいいよらす。おい、君、ん、なんだい、うれしかろうが。何をですかって、こう言うたないな。何がうれしかっでしょうかってこう言うたな。気持ちよかろうが。屁どんかめと思いよった、心の内で。もうごめんなさいよ。正直な話ば今やりっぱにしよっとけんな〉
〈君、うれしかろうが、必ず言わすよ。日本人の人がさな〉
〈そしてもう、あんまりうれしゅうなかときは、怒らんなら言うですけれども、ってこう言う。怒らんで言えって。ふん、日本人なんかは、もう好かんって、外人が一番よかって、私言いよったですよ。何、もう一遍言うてみろ。そうです。太かろうが、長かろうが。そうです。なんも隠さん〉
女性の扱いが乱暴なのは日本人と、他の「からゆきさん」も
「うれしかろうが」「気持ちよかろうが」と言って同意を求めてくる日本人より、外国人の方がよかったという。苛酷な環境で働く春代は、教養があり紳士的な対応をする外国人に比べ、女性の気持ちをおもんはかることなく、自分の欲求を満たすことにしか関心がないような言動をする日本人男性を腹立たしく感じたのだろう。
先述した『サンダカン八番娼館』は、山崎朋子が、天草に住むからゆきさんだった女性、おサキさんと3週間生活を共にし、その際に聞き取った娼婦時代の話をまとめたものだ。嶽本新奈氏が指摘するとおり、おサキさんが語る娼婦の体験は、春代の証言と多くの共通点がある。
おサキさんは9歳の頃、家計を支えるためにボルネオ島のサンダカン(現マレーシア)に渡り、22歳から娼婦として働くようになる。忙しいときは一晩で30人の客を取ったといい、客ごとに陰部の消毒を欠かさなかった。
そして、春代と同様、日本人客について「(現地住民や英国人、中国人らと比べて)一番いやらしかった。うちらの扱いが乱暴で、思いやりがなかった」と嫌う。
おサキさんも春代も外国人と接することで、日本人男性の身勝手さを知るようになったのだろう。
1年半でイギリス人に身請けされ、「ダイヤモンドおなご」に
春代は1年半、娼館で働いた後、18歳でイギリス人のフォックスという男性(当時27歳)に身請けされる。「身請け」とは、娼館への借金を肩代わりして精算し、娼館をやめさせることだ。シンガポールでは、そのようにしてイギリス人が現地で娼婦を愛人にすることは珍しくなかった。
当時春代には他に好きなイギリス人がいたが、強引に身請けしたフォックスと8年間暮らすことになった。フォックスは宝飾品をたくさん買い与え、島原の実家にも送金してくれた。身請けされた後、春代は日本人の間で「ダイヤモンドおなご」と呼ばれることもあり、経済的には不自由のない生活を送ることができた。
しかし、結婚をして子どもを持つという生き方は選べなかった。22歳の頃、妊娠が分かった際は、フォックスに中絶と不妊手術を迫られた。「ハーフで生まれると子どもが差別に遭う」「正式に結婚しておらず、日本人娼婦との関係はイギリス人コミュニティで悪く言われる」といった彼の言う理由からだった。春代は自分も承諾して手術したと説明するが、こう漏らす。
妊娠するも中絶と不妊手術を求められ、後年まで心の傷に
〈おれは大喜びしてます。おめでとう、みたような気持ちを抱いとったわけですたい〉
〈ところが、ある朝、相談があるちゅうとですもん〉
〈おろせっていうとですたい〉
〈今度は殺してしもうたとよ。子宮をば〉
中絶や不妊手術は今も昔も女性にとって非常に重い決断だ。ここまで苦労を重ねてきた春代には、妊娠は幸せを実感できる数少ない出来事だったに違いない。だから、70歳を過ぎて振り返っても、言葉の端々に深い苦悩や動揺がにじむ。語られた内容を分析している嶽本氏も、「思い出したくない経験を吐露しているからか、それまでの受け答えはしっかりしていたのに、このときの語りは意味を把握するのが難しいほど錯綜しています」と指摘する。
ちなみに、その当時の中絶や不妊手術はどのように行われていたのだろうか。シンガポールの医療事情は不明だが、日本の明治期などの手法を参考までに紹介する。江戸時代の中絶方法を調べた中央社会事業協会社会事業研究所編『堕胎間引きの研究』(1936年)によると、堕胎は平安時代から行われ、江戸時代にさかんになった。
江戸時代以降も堕胎の方法は、女性にとって危険すぎた
江戸期の方法は①薬を飲む②機械的方法(施術)の二種類があり、薬は毒薬を飲ませて中毒症状を起こさせるというもので、「月水早流し」などの名称で民間で売買されていた。施術は、腹部に強い振動を加える、腹部を圧迫する、子宮に棒状のものを差し込む、といった方法だった。
論文「同意堕胎罪・業務上堕胎罪における母体への『同意傷害』」(田中圭二、1994年)によると、明治期も江戸期に続き薬が使われたが、効果が薄かったため、手術が主流だった。薬の成分は不明だが、下剤または中毒薬で、なんらかの草や根など、ある種の有毒菌類だったとされる。手術は、子宮口からカテーテルなどを挿入して子宮内膜から卵膜をはく離させて陣痛を起こし、排出させる方法が主に用いられていた。医師以外の者が手術をすることもあったという。薬の場合は中毒によって、手術は消毒法が十分でない中で母体を損傷するため、死に至る可能性は十分あったといい、いずれも命の危険をともなう方法だったと言えるだろう。
避妊のために薬を飲み、若くして亡くなった「からゆきさん」
シンガポールのからゆきさんが「避妊のために薬を飲んでいた」という証言もある。現地で亡くなったからゆきさんが葬られているシンガポール日本人墓地公園で長年ガイドをしているという女性が、活動を紹介する動画で、現地の元からゆきさんから聞いた話として、「避妊のために薬を飲み、体を悪くして若くして亡くなる女性がいた。若くして亡くなったのは自殺じゃない。自殺をする自由もなかった」と明かしている。
日本では現在でも中絶方法としては手術が主流(経口中絶薬が2023年4月に承認されたが、処方は一部医療機関にとどまる)で、母体への負担が大きいと指摘されているが、明治期の中絶の危険性はもちろんその比ではなく、命がけだった。シンガポールでも避妊などのために薬が用いられて死に至った女性がいたとみられ、中絶・避妊が女性の心身へ及ぼす影響は非常に大きかった。春代は命は助かったものの、インタビューで動揺した様子がみられることから、晩年まで心の傷はいえなかったようだ。
シンガポールでゴム園を経営、ホテルの女性支配人として成功
フォックスは春代を残し、1914年に始まった第一次世界大戦に出征する。
フォックスは、「自分は戦争で死ぬかもしれないから」と春代に日本に帰るよう促したが、春代は「働いてもっとお金を稼ごう」とシンガポールに残った。26歳頃、フォックスから得た資金などでゴム園を購入し、中国人らを雇って運営する。その儲けを元手に、30代半ばでホテルを建て、経営に乗りだす。嶽本氏が指摘するとおり、シンガポールなどでの日本人の活動についてまとめた『南洋の五十年シンガポールを中心に同胞活躍』(南洋及日本人社編、1938年)の人名録には春代の実名が記載され、ホテルを経営していたとの記録が残っている。
事業者として成功を果たした春代だが、恋愛小説のようなエピソードも明かしている。「三十代まできれいだった」という春代は、フォックスがいない間に日本人男性から熱心に言いよられたという。仲立ちからしつこく迫られて断り切れず、「フォックスが戦争から帰ってきたら別れてもよい」と言われて、その男性の「内縁の妻」になったが、数カ月後にフォックスが生還する。約束どおりその男性と別れ、ふたたびフォックスと暮らし始めるが、男性との関係を知ったフォックスから突然別れを告げられる。フォックスはイギリスに帰国する。春代は、その帰国の前夜にフォックスから、「戦争中、敵兵と一騎打ちとなった場面で春代の姿が見え、導かれて敵兵に勝つことができた。春代ともう一度暮らすことが夢だった」と言われたと語る。
シンガポールで稼いだ金を宝石に換えて引揚船に乗ったが…
ひとりになった後もホテル経営は順調だったが、太平洋戦争の開戦を機に客が減り、閉鎖を余儀なくされる。そして戦中、シンガポールなど東南アジアに住む日本人は、イギリスによってインドに抑留された。春代も「インドのキャンプ(収容所)にいた」と語っている。春代は、終戦後の1946年頃にインドから帰国した。
宮崎康平の未完の小説『からゆきさん物語』で妻・和子さん執筆のあとがき(『からゆきさん物語』の出版にあたって)によると、ホテル経営で得た財産を宝石に換えて引揚船に乗ったが、その後だまされてほぼすべてを失ったと明かしている。帰国後は島原で近所の子どもの面倒を見るなどしてわずかな収入を得て、亡くなった妹の子どもを育てたという。
以上が、主にテープで語られた「からゆきさん」の声の概要だ。
春代の最晩年の様子はよくわかっていない。春代の墓に刻まれた没年によると、インタビューから6年後、80歳頃、その生涯を閉じた。
春代は最期の時、何を思ったのだろうか。