その一年後に、中宮定子(ていし)は第三子の女宮(おんなみや)出産ののち、はかなく亡くなってしまった。あんなにも評判だった中宮定子サロンは彰子入内ののち、すぐさま消え去った。それがよけいに定子への思慕をかき立てただろう。中宮定子がいらしたころはよかった、と。なにしろ彰子サロンはつまらないのである。

このさえない彰子サロンを盛り立てるために紫式部はあとから投入されたらしい。紫式部が彰子サロンに加わったのは、すでに定子サロンが失われたあとで清少納言とは入れ違いだった。

紫式部を見出したのは、漢学者の紫式部の父為時(ためとき)を知る、行成(ゆきなり)だったかもしれない。藤原為時は、一条天皇を即位させるために兼家によって退位に追い込まれた花山天皇に学問の師として仕え、一条天皇代には、散位(さんい)となって長く位を解かれたままだった。長徳二(九九六)年に為時は越前守(えちぜんのかみ)に任じられ、これに紫式部も同行したといわれている。

彰子と紫式部――彰子サロンをめぐる感想を『紫式部日記』に書きつけた

紫式部は『源氏物語』のほかに、『紫式部日記』を残している。『紫式部日記』は、寛弘(かんこう)五(一〇〇八)年の中宮彰子の第一子出産とその後の誕生の儀の記録の他、女房批評があったり、道長との交流が描かれたりなど種々雑多な内容をもった文章が混じっている書き物である。

蜻蛉(かげろう)日記』や『更級日記』とは異なって、『紫式部日記』は自身の人生を書き記したものではないので読み物としての一貫性がない。彰子を(たた)えるという目論見で、『枕草子』のような断章的な書き物をめざしていたようにもみえない。大部を占めるのは彰子の皇子(おうじ)出産記事だから、これを記録することが求められていたとおぼしい。

ところがこの出産記事は微に入り細を穿(おうじ)ちすぎていて、まるで次第書(しだいがき)[i]のよう。それこそ資料的に興味深いものの、せっかく物語作者に書かせたというのに読み物としての面白みには欠ける。この出産記事は、のちに道長の栄華の極みを頂点とした歴史物語である『栄花物語』が書かれるにあたって、そっくり取り込まれている。とすると『紫式部日記』の出産記事は道長の依頼で書かれ、道長に提出されたということになるだろう。