刀剣には童名を付けられてきた

刀剣もそうだ。刀剣には童名を付ける。能『土蜘蛛』の蜘蛛切り丸や『小鍛冶』の小狐丸とか、名刀には童名を付ける。私は居合をやるので、自分の刀を持っている。刀を構えると、刀は異界とつながっているということが実感される。刀を正眼に構えると、野生の巨大なエネルギーが刀を通じて発動するのがわかる。自分の身体がそのエネルギーの通り道であるということが実感される。

実際に、刀で兜を斬った人がいる。もちろん、人間の筋力では兜なんて切れるはずがない。でも、刀が深々と切り込んだ跡がある兜がいくつも残っている。人間の力ではできるはずがないことが刀を持つとできる。それは、刀を通って発動するのが人間の力ではなくて、自然の力だからである。それは真剣を持って稽古したことがある人なら誰でも感じることだと思う。刀は自然の力と人間の力の間を架橋する。だから童名を付ける。

そういう伝統的な「子ども」観が日本にはあった。私はこれが今まったく顧みられなくなったことを嘆いている。

学校は子どもを「聖なるもの」から「この世」に誘導する装置

学校というのは、この「聖なるもの」である子どもを迎え入れ、彼らをゆっくりと「聖なるもの」から切り離して、「この世」に誘導してゆく装置である。子どもたちが本質的に「謎めいたもの」であるのは、彼らが「異界」や「外部」とつながっているからである。それを切り離して、こちらの世界に連れてくるという、とてもデリケートな「切り離し作業」を学校では行わなければならない。

小学校の教室で手を挙げて質問したり答えたりしている男女の小学生のグループの背面図
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子どもたちが「聖なるもの」である以上、教室もまた道場やお寺の本堂や神社の拝殿と同じく「超越的なもの」や異界との交流の場だということになる。

『周礼』には士大夫が学ぶべき「六芸」が挙げてある。礼、楽、射、御、書、数。君子が学ぶべき一番のものが礼である。「鬼神」に仕える作法のことである。「この世ならざるもの」に仕え、それを適切に敬するための作法を古代の君子はまず学んだ。