若手サラリーマンみたいな家

世間では、“天皇”だなんて言われていたけれど、磯田会長は繊細な人だったんだ。温厚だし、少なくとも僕は威張っているところなんて見たことがない。それに私利私欲なんて一切なかった。その証拠に、磯田会長の家って、若手のサラリーマンが初めて買う建売住宅みたいな小さな家なんだよ。応接間も六畳くらいでね。慎ましい暮らしだった。

1980年代に磯田会長がNHKの経営委員長を務めていた頃、「杉さん、なんでNHKに出ないの?」と聞かれたことがある。僕は73年に『国盗り物語』に出て以来、しばらくNHKの大河ドラマから遠ざかっていた。それは、1年間拘束されるわりにギャラが1桁違うんじゃないかっていうぐらい安いから。僕は自分の会社を経営しているから、それじゃやっていけない。そう伝えたんだけど、磯田会長は僕を不憫だと思ったのか、その場で電話をかけ始めた。相手は、後にNHKの会長となる川口幹夫さんだった。

「川口君、杉さんは何でNHKに出られないの?」

「いや、NHKが出さないわけじゃなくて、杉さんのほうが出てくれないんですよ」

困惑した川口さんの声が受話器越しに聞こえてくる。「だから、今言ったようにギャラの問題があって……」と僕が横から口を添えると、磯田会長は「あんた、杉さんにいくら出す?」と畳みかける。

「通常はこれぐらいなんですが、杉さんには、もっと出せるように頑張りますから」

「杉さん、こう言っているけど、どう?」

「ダメです」

「川口君、ダメだって。じゃあまた」

って、バーンと電話を切る。当時の経営委員長はすごく立場が強かったんだろうね。今の時代だと横暴だと思われるかもしれないけれど、昔は一事が万事、こんな感じで物事が動いていたんだ。

「この体を担保に」

 他の場面でも、磯田の電話の威力を実感したことがあるという。1986年、杉は日中友好親善公演を中国の三都市で行い、中国青少年育成基金として中国政府に1億円を寄付することになった。寄付をするにも多額の税金がかかるため、残留孤児への支援活動費や寄付分を含めると全部で5億円必要だが、手元には3億円しかない。そこで頼ったのが磯田だった。

僕は普段、財界の人にお願いをすることはないんだけど、この時ばかりは磯田会長に頭を下げに行った。

「家も会社も担保に入ってるから、僕にはもう担保に入れるものがない。残っているのは体だけ。この体を担保にお金を貸してください」

「杉さん、銀行は、体を担保には貸さないよ」

「それは承知の上です。でも、僕の体にテレビドラマのスポンサーがお金をかけてくれてるわけだし、ある意味、体には一番価値があるんです」

「何に使うの?」

「中国に寄付します」

「やめなさい! 君、老後、どうすんの」

でも、僕が中国での支援活動について真剣に話をすると、磯田会長は受話器をとって次々に電話をかけ始めた。「杉さんが中国でこういう支援活動をするんだけど、あんたのところ、いくら出せる?」。日本電気、マツダ、アサヒビール。そういった巨大グループから全部で1億円集めてくれて、残りの1億円は磯田会長の判断で融資をしてくれた。利息分も合わせて最終的に1億7500万円返したけどね。

「金を借りに来る人は数多(あまた)いれども、自分のためではなく、体を担保にして寄付するために銀行に頭を下げに来た人はいなかった」