「シンガポールで日本を超えろ」
海外でも、日本でつくる製品と同等以上の品質を確保する。地域ごとのニーズに合ったモデルを、現地で開発・設計する。必要な部品も、現地で低コスト・高効率で生産する。生産地から世界の市場へ販売し、顧客の反応を直接つかむ。設備投資の資金は親会社に頼らず、自らの稼ぎで回していく。生産計画や利益処分では、親会社の都合による「数字合わせ」に引きずられない。
いずれも、グローバル化を迫られている日本の製造業にとって、今日的な課題だ。そのすべてに、20年前、シンガポール子会社で立ち向かった。40代半ばでの体験が、いまパナソニックグループ全体のグローバル経営にあたって、強い基盤となっている。
1989年1月、シンガポールでオーディオ機器をつくる子会社へ、社長として赴任する。日本を離れる前、役員から、数々の宿題を出された。前回紹介した、工場の古い生産設備を売却しようとして手厳しく叱られた、あの上司だ。まずは、部品から完成品までを一貫生産し、質量ともに世界一のマザー工場になろうとしていた仙台工場と、同水準の生産拠点に改変することだ。
シンガポールでは、労働力の安さを頼りに、2700人が人海戦術で稼いでいた。そんな非近代的な状況が、いつまでも続くはずはない。上司は「思い切って進化させろ。日本を超えてみろ」とまで言った。
仙台と同様に、工場で生産するラジカセやミニコンポの部品も、現地で生産することにした。アジアや中南米でつくる製品向け部品の供給基地の役割も、日本から移して引き受ける。進む円高の打撃を打ち消すためだ。新製品の基礎的な開発は、引き続き日本勢が受け持つが、販売先ごとのニーズに即したモデルチェンジはシンガポールで進める。それらのことを実現するために、生産ラインを仙台並みに高度化し、設計や金型をつくる部隊も置き、プレスの機械や成型機も配備する。
日本の面々には、かなり「大胆すぎる計画」と映ったようだ。反対論が広がった。最新ラインは1本で約20億円かかる。本社の会議に出て説明すると、「そんな高度なものを入れても、シンガポールで動かせるはずがない」と集中砲火を浴びた。
部品を大量生産するには、金型がたくさん必要だ。その金型一つ一つに、わずかなバラツキが出る。ラジカセの駆動部は、そんな部品の組み合わせだから、バラツキが集積される。ときに、誤差が許容範囲を超えて、製品のボタンを押しても動かないことが起きる。普通の電気製品なら、具合の悪い部品を一つ交換すれば、動き出す場合が多い。でも、複雑なメカでは、そうはいかない。そこで、生産現場で個々の部品をきちんとすり合わせることにしたが、本社の面々は納得しない。「そんなすり合わせは日本だからできるので、シンガポールでは無理だ」と言う。
すり合わせは、日本の「ものづくり」の得意技。ていねいに、根気よく、ノウハウを蓄積する技能が必要だ。その力を身につけなくては、日本を超えることなどできない。反論していると、役員が「本人がやると言うのだから、やらせてやれ。きみたちも、応援してやれ」と断を下してくれた。返す刀で「びびるな、ドンといけ」とこちらに檄を飛ばす。
最適調達、最適生産の体制に加えて、最適販売の布陣もとる。当時、製品の販売は日本にいる営業部隊が全世界から受注し、工場へ発注する仕組みで、窓口が米州、欧州、アジア・中近東と分かれていた。そのアジア・中近東向けの部隊を、シンガポールに受け入れた。市場動向への反応が、一変する。販売担当者が、近隣諸国や中近東から様々な注文をとってくる。自分も各地へ出向く。米国のような値下げ競争もなく、収益はすぐに向上した。
のちに、販売部隊は守備範囲の効率化などから本社へ戻ったが、例のない挑戦を経験し、シンガポールに様々なノウハウが残る。松下グループの海外工場の中で、断トツの投資回収率を達成した。その礎を築く。技術者も販売部隊も意気軒昂で、常に先進的なことを目指し、目や耳にしたナマの情報を、ぶつけ合う。