徳川家康が豊臣政権に下り、天下統一を目指す秀吉にとって“最後の敵”となった戦国武将・北条氏政。戦国時代の合戦を研究する乃至政彦さんは「氏政は始め、秀吉と戦うつもりはなかったが、真田家とトラブルを起こしてしまい秀吉に軍を向けられた。しかし、遠方から移動してくる大軍を相手にして、氏政には起死回生の策があった」という――。

関東の覇者・北条氏政は信玄や謙信を撃退してきた

本能寺の変から8年、織田信長の家臣から一代で成り上がった豊臣秀吉は、今や天下の権を得ようとしていた。秀吉は、畿内から九州・四国までを制圧して、ついには徳川家康をも傘下に組み入れ、もはや天下統一まであと少しであった。秀吉の望みはもちろん、群雄割拠の戦国時代を終わらせ、確固たる統一政権を築くことにあった。

一方、戦国時代そのものを体現するような独立的な大勢力が関東の覇者として君臨していた。小田原城を拠点とする北条氏政である。

北条家は、北条早雲という後世の呼び名で知られる伊勢そうずい以来、五代に渡って勢力を広げており、特に氏政は、小田原城を攻めてきた上杉謙信や武田信玄を退けさせた実績を誇る。しかも既存の領主層を介さず、直接的に百姓を統治する民政ぶりには定評があり、自らの勢力を「国家」と自認するほどであった。

後・北条氏五代家系図
出典=神奈川県立歴史博物館サイトなどより編集部作成
『北条氏政の肖像』(写真=堀内天嶺写、小田原城天守閣所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
『北条氏政の肖像』(写真=堀内天嶺写、小田原城天守閣所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

だが、関東には反北条派の領主が多く、彼らは秀吉に北条を非難する声を伝えていた。

これに困ったのは、何よりも秀吉だった。統一事業を進めてはいるが、なにも戦争が好きなわけではない。まずは関東・奥羽に私戦を停止させる「そう​事の令」を発し、氏政に上洛を要請した。

氏政は秀吉政権下に入るつもりだったが想定外の事態に

もちろん上洛は豊臣家に従属することを意味する。氏政は覚悟を決めていた。ところが上洛の期日を前にして、とんでもない事件が起こり、豊臣・北条両家の関係が破綻した。

発端は天正17年(1589)10月末に、北条氏邦(氏政の弟)家臣のいのまたくにのりが、真田領の胡桃ぐるみ城を奪取したことにあった。

この「知恵分別もなき田舎侍」にしてやられた真田昌幸は、事件の経緯を秀吉に報告する(『北条記』)。氏政は秀吉にこの事件を小さな私的紛争と弁明を試みたが、氏政・氏邦(氏政の弟)の同意なく、一領主がこのような事件を独自に起こすことは考えにくい。

昌幸も「田舎者」の短慮にしてやられるほど甘くない。バックに北条家の思惑があったと見るのが適切だろう。秀吉は事件が起こったこと自体を問題視した。

そもそも秀吉が「大きな御家のことであるし、戦の世には行き違いなどよくあることだ、なにか理由があるのかもしれない。家中の侍がやったことなら、擁護するのも当たり前だ」などと耳を貸してやることはありえない。あってはならない。戦国時代の風習だからと布令に例外を認めていたら、統一政権など成り立たないからだ。