家康と組んでいた信長の次男・信雄はあっさり降伏
家康にしてみると、信雄が降伏してしまうと、単独で戦う大義がなくなってしまうのですね。秀吉はまず家康から戦う意義を奪い、その後、秀吉は朝廷を利用する。彼はあっという間に関白になり、豊臣という姓もつくった。そして朝廷の威光のようなものをバックにして、家康が頭を下げざるを得ない状況を、政治的につくり出していくわけです。
しかし秀吉が、軍事的に家康を倒すことを諦めたことは事実。家康は一目も二目も置かれるかたちで、対秀吉戦という危機を乗り切った。だから「小牧・長久手の戦い」における家康は、たしかに見事な采配を示したといえるでしょう。
ただし、これひとつなのです。家康が「いや見事ですね!」と称賛されるような戦いぶりを示したのは、この「小牧・長久手の戦い」ひとつだけということになります。他の戦いで名将ぶりを示して、「おお、これは!」と思わせるようなキラリと光る作戦を見せたかというと、これがないのです。そもそも創意工夫は、家康の戦いにおいてはあまり見られないものでした。
ひらめきはないがアイディアを取り入れる柔軟性はあった
信長や秀吉が工夫したアイディアを取り入れることは、家康もやります。たとえば信長が考え出した野戦築城も取り入れる。「兵站の確立」も、信長と秀吉のふたりの創意工夫です。
それまでは戦いのときに、しっかりと食糧を持って行くことはあまり考えなかった。「攻め込んだ現地で調達しなさい」といった、そうした安直な考え方がありました。しかし秀吉は確実に食い扶持を持って行くようにします。あるいは現地でお米を手に入れるとしても、ちゃんと対価を払う。そしてきちんと補給も行う。こうした兵站についての考え方も信長、秀吉のときに確立されます。
秀吉の軍事については「城攻め」が有名ですね。堤防を築いて城をまるごと水没させたりする。城攻めに創意工夫が発揮された。それはその通りなのですが、秀吉の最大の独創性は、先にふれたように「兵の運動性を重視したこと」にあると思っています。
そうした先例を見ている家康ですから、野戦築城もやる。兵站もきちんと整備する。行軍も大事にする。そうした工夫を取り入れて、家康は軍事をやります。「富国強兵」もおそらくできる。きちんと領土を経営して富を築き、兵をそろえる。家康は、これはできる。しかし戦場の名将と見られるような戦績は、実は持っていない。彼自身が新しく目ぼしい工夫を凝らしたということもない。そこがなんとも家康らしいなと感じます。
1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。