※本稿は、本郷和人『徳川家康という人』(河出新書)の一部を再編集したものです。
平凡な家康は戦国最強の武田軍団と戦って経験値を積んだ
家康の戦歴をふり返ると、まず三河武士を率いて三河で独立を果たす。その後に信長と同盟を結び武田と戦うことになったわけですが、圧倒的に強い武田に対して家康はいつも防戦いっぽう。そもそも戦術的な才能のきらめきを見せる場面がなかったともいえます。結局のところ「三方ヶ原の戦い」のように大敗して、脱糞して逃げるのがせいぜいでした。
ただこれは逆にいうと、家康は常に強大な武田と戦って、地道に努力を続けていたということでもあります。このキャリアのおかげで彼の戦いの経験値は蓄積されていった。もともと才能がない人でも経験値の蓄積は大きな力になるものです。だから家康は、戦争というものをまったくの机上の空論で語る人と比べると、立派な武将だったのだろうと思います。
そうして経験値を積んだ家康の采配が唯一、見事にはまって輝きを見せた戦争が「小牧・長久手の戦い」(1584年)でした。
織田信長と柴田勝家の死後、対秀吉戦が始まった
この戦いではまだ羽柴と名乗っていた秀吉が攻めてくる。徳川家康を打ち破り、うまくいけばここで徳川を滅ぼしてしまえということで、東海地方をめがけて軍勢を率いてやってきます。家康としては、三河まで来られてしまうと自分の領地を荒らされてしまうわけですから得策ではない。美濃尾張、現在でいえば岐阜や愛知で防御することを考えて、それで尾張の小牧山城をとります。秀吉は、その動きに対抗するかたちで犬山城に入る。
ここで当時の戦争の方法論として、両者は「野戦築城」を行います。これは織田信長が考え出した、戦場で防御を固めるという工夫。有名な「長篠の戦い」で実践されたアイディアです。このときに信長は武田と戦うわけですが、兵隊すべてに木材を持たせて戦場に送り出した。そして現場で馬防柵をつくり、武田の攻撃を防御しつつ戦い、勝利しました。
そのとき、塹壕を掘るという発想が出てきて、戦場で突貫工事を行うようになっていきます。縦横に塹壕を掘り、敵の攻撃を防ぎつつ攻撃する。信長はそうした野戦築城を、最初に実践した人かもしれないと思います。
信長の考え出した工夫は、すでにこの時期、武将たちに共有されるようになっていました。秀吉のように「新しいもの好き」の人だけではなく、脳筋タイプに見られがちな柴田勝家なども、盛んに野戦築城を行っています。