かつて皇室で皇太子や親王を導いた「傅育官ふいくかん」は、いまはいない。しかし、悠仁さまは幼いころから長い時間をかけて「帝王学」を身につけているのだろう。

前述のように、ご両親と公務の場に同行する経験も積んでいる。

一方で、皇室制度にも詳しい八幡和郎・徳島文理大学教授は、悠仁さまは「もっと公的な場に出る機会を積まれるべきだ」と話す。

「というのも、昭和天皇や上皇さまも御幼少の時期から、御学問所で天皇にふさわしい教養や知識を学んでいます。しかし、海外王室との親善や対応を行うという点では、宮内庁による教育は限界がありました。そこで宮内庁は、皇太子の時期に海外を訪問する機会を設けて実地で学びの場をつくったのです」

かつて、元老の山県有朋や原敬首相は、裕仁ひろひと皇太子(昭和天皇)も海外で学ぶべきであると勧めている。

「将来の君主として、皇太子が大戦後の欧洲各国を巡遊し、世界の大勢をつまびらかにし、各国の君主・元首と交際して交誼こうぎを厚くすべし」

裕仁皇太子は19歳だった1921(大正10)年3月から6カ月の間、英国やフランスをはじめとする欧州各国を訪れた。そこで目にしたのは、第1次世界大戦による犠牲の跡だ。

英国軍の多大な犠牲を出したベルギーの激戦地を目にした裕仁皇太子。深い衝撃を受け、英国王のジョージ5世にこう電報を送っている。

「『イープル戦場ノ流血凄惨』ノ語ヲ痛切ニ想起セシメ、予ヲシテ感激・敬虔ノ念、無量ナラシム」

フランスでも、破壊された街と荒廃した森を目にした。裕仁皇太子はその光景を嘆き、現地紙に、「戦争を讃美さんびし、暴力を謳歌おうかする者の眼には如何いかに映ずきか」と、談話を寄せた。

戦後、昭和天皇としてこのときの欧州訪問を、こう振り返っている。

「英国国王ジョージ五世から立憲政治のあり方について聞いたことが終生の考えの根本にある」