スタイリストが人気タレントを勧誘する

1992年8月25日にソウルで行われた合同結婚式の現場は、日本のメディアの取材合戦が繰り広げられ、さながら戦場のような雰囲気になったのである。

連日、ワイドショーは合同結婚式を取り上げ、人気タレントの結婚式さながらのお祭り騒ぎを流し続けた。

当時私も、幸福の科学という新興宗教団体と訴訟沙汰に発展していた。連日のように信者である歌手の小川知子や直木賞作家の景山民夫が率いる信者たちが、講談社の前を「フライデーを潰せ」とシュプレヒコールをして歩いていく姿がワイドショーで流された。

絵になる被写体があれば主張などどうでもいい。テレビのやり方は今も変わらない。

当時、人気タレントたちを次々に入信させていたのは、有名なスタイリストであった。彼女に誘われたなかに、当時人気キャスターだった飯干景子(旧芸名、以下飯干=編集部注)がいた。彼女の父親は元読売新聞社会部記者で後に作家になり、映画『仁義なき戦い』の原作を書いた飯干晃一氏である。

週刊文春(1992年10月1日号)が景子の入信を報じると、すぐに父親から編集部に電話が入った。飯干は「統一教会に宣戦布告する」と宣言したのである。娘の景子はニューヨークへ行くといったきり姿を隠してしまっていた。

連れ戻してからが「本当の戦い」だった

私は飯干氏とは付き合いが長い。相談したいことがあると彼のマンションに呼ばれ、「何としてでも娘を取り戻したい。協力してくれ」といわれた。憔悴はしていたが、殺気のようなものが体からにじみ出ていた。

だが、ようとして娘の居所はつかめなかった。飯干氏は週刊文春(同年10月8日号)で「暴力団は肉体の暴力をもって、自らの経済的、政治的な目的を満たそうとする組織であるが、統一教会は精神的な暴力をもって経済的、政治的目的を遂げようという組織である。(中略)私は残りの半生をかけて統一教会と戦っていく」と宣言した。

彼はあらゆる統一教会の資料や聖書を読み込み、理論武装していく。そこへ突然、景子が帰ってくるのだ。だが、本当の戦いはそれからだった。

聖書
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統一教会には、反対し脱会させようとする親たちにどう対処するのかを事細かに記したマニュアルがある。飯干氏は「娘の話はこんにゃく問答のようにつかみどころがない」といっている。信者の中には改心したかのように見せて逃げ出してしまうケースも多い。

飯干氏は、キリスト教関係者と元信者たちにも来てもらった。少しずつ娘に変化が表れてきた。週刊文春(11月12日号)に掲載された飯干景子の手記「統一教会という迷宮を脱けて」で、彼女はこう書いている。