「日本人や中国人のことは理解できない」
かつて、あるアメリカ人の大学教授と話していて、わたしは大きな違和感を覚えたことがあった。
彼が「日本人や中国人のことは理解できない。それは仕方ないことだ」といったのだ。わたし自身の感覚では、中国人の気持ちも(日本人の気持ちほどではないとしても)理解できるし、興味や関心を持って学んでいるから、異なる文化圏に生きるアメリカ人の気持ちもわかる。
しかし彼は、(知識人であるにもかかわらず)はっきりと「あなたたちのことはわからない」と述べたのだった。
わたしはこのとき、彼がなぜ他者を「わかろうとしない」のかが理解できず、とても不満に思ったのを覚えている。
似たような話はほかにもある。
イスラム過激派組織ISILのジハード(自爆テロ)の話をすると、多くの欧米諸国人は「わけがわからない!」「理解できない!」と吐き捨てる。
そんなあり方は、相手の立場や主張を想像することを安易に放棄し過ぎていないだろうか?
もちろん、わたしも自爆テロのような殺戮が「正しい行い」だとは思わないし、殺戮はなくなるべきだと考えている。だが、相手に対して冷静に敬意を表し、状況の意味を理解してから意見を述べるべきだと主張したい。
イスラム教の聖典には、「アッラーのために殉死した者は天国へ行ける」と書かれている。
キリスト教の十字軍などの迫害を受け続けた歴史を持つイスラム教徒(イスラム教原理主義者)の一部が、アッラーの教えを心から信じた結果、命を賭して戦おうと決断する論理は理解できないだろうか。
憎き異教徒に復讐し、聖典に書かれていた通り、英雄となって天国に行きたいと思う人々のことを想像できないだろうか。
対話ではなく、対立が深まっているワケ
それぞれの主張を肯定し、共感しようといっているのではない。
逆の立場でもいえることだが、相手の立場について考える想像力と理解力を持つべきだといっているのだ。
他者のことを「想像もできない」のは、あまりに相手の立場を顧みない、人と人とを分断へ導く思考ではないだろうか? そこに問題があると、わたしは思うのだ。
日本人にもこうした態度を取る人は少なくない。世の中を見渡せば、ネット上の中傷行為や学校でのいじめ、職場でのハラスメントなど、相手の人格を尊重しない言動が溢れている。隣国との歴史問題も、対話が進まず悪化が止まらない状態である。
「あの国は理解できない」「あの国は世界の常識が通用しない」といって呆れ返る自国中心主義的な態度は、文化相対主義(※)から見ると、想像力に欠けている。
そうではなく、互いの立場を想像したうえで、「なるほど、立場が違うから意見も変わるのだ。ならばどうすれば距離を縮められるのか」と考えてみようではないか。
※諸文化をそれぞれ独自の価値体系を有する、対等な存在として捉える態度、考え方。各文化は個々の自然・社会環境への適応を通じてかたちづくられたもので、それ自身の価値を有し、互いに優劣や善悪の関係にないとする。文化の多様性を容認して異文化間の相互理解を促し、人類学の基本倫理となってきた