親と話すときとは違う、養鶏について質問する長男の姿

動物園にいくと、食肉になる動物が不在であることに気づく。いや、動物園によっては飼育されているところもあるだろうが、やはり少ない。かわいそうに感じたり、快く思えないだろうという配慮か。それとも客からそうした声が上がったのか。いずれにしても、おかげで私はいまとても新鮮な目でニワトリを見ている。歩き方、羽の広げ方、鳴き声。何もかもが興味深い。弥彦さんの鶏舎ではオスとメスが一緒に暮らしており、ぼんやりとだが、彼らの社会が感じられる風景だった。人が近づくと、メスが奥に、オスが手前へと移動していた。

いつの間にか、“うちではこんなふうには飼えないのか”と想像する自分がいた。

〈オスは夜明け前にコケコッコーって鳴くから、周囲の迷惑にならないようメスだけを飼う〉

長男の言葉が、具体的な風景として思い浮かぶようになってきていた。長男は弥彦さんから養鶏に関する話を聞いていた。エサのこと、ニワトリ小屋のこと、採卵のこと。私たち親と話すときとまるで違う。まあそりゃそうだろう。養鶏のことなどまったく知らないど素人の私たちと小競り合いするよりも、烏骨鶏を飼って暮らしてきた弥彦さんと話す方がおもしろいに違いない。

手にのせたニワトリの卵
卵を手にする子どもたち(画像=『ニワトリと卵と、息子の思春期』)

長男の行動は警戒心をもって見てしまうが、次男と末っ子がおもしろそうにニワトリを見たり雑草を差し出したりしている姿は、素直にいいなと思った。子どもたちと動物の風景は心地いい。私の気持ちは傾きはじめた。

“命の重みは等しいか”長男の意見

長男が大家さんの許可を取りつけた私の出張中、学校では授業参観があったらしい。夫が娘連れでいったそうで、そのときの様子を話してくれた。

「遅れて、途中からしか観てないんだけど……」と前置きして、“命の重みは等しいか”というテーマの授業で、クラスの皆が“等しい”という方に手を挙げ、うちの長男だけが、そうは思わない方に挙手したのだという。

そして、その理由として「実際に経済動物というのがある」という話をしたそうだ。

“命の重みは等しい”方の子たちからの意見はなかったらしいが、「ペットが死んで悲しかったから」と言った子がいて、先生は「そうか、君には体験があるんだね」と言い添えられたのだそう。