台湾人が求めているのは「独立」ではなく「建国」
翌朝。10時に、台北のなかでも最近、気になっていた街、六張犁站で友人のdodoと待ち合わせしていた。僕は、なんだか緊張して早起きしてしまい、朝9時には目的地に着いてしまった。
せっかくなので街をぶらぶらしていたら、dodoから30分遅れるとのLINEが入った。いつもの寝坊だ。dodoには遅刻グセがある。僕は仕方なく、近くにあったファミリーマートのイートインでコーヒーを飲みながら待っていたが、いつの間にか、僕のほうが眠っていた。
――気がついたら、dodoから着信があった。時間は10時30分。今度は僕が寝坊していた。急いで駅に向かう。すると横断歩道の向こう側にdodoの姿が見えた。ジーンズに白いシャツ、化粧っ気のないシンプルないつもの格好だ。僕の姿を見つけて手を振っている。信号が青になると、僕は横断歩道を渡り、「好久不見!(久しぶり)」と少し前から習い始めた中国語を使って挨拶してみた。
「覚えたて!」
dodoはそう僕をからかい、笑顔を見せた。さっそく僕らは近くにあるカフェに入った。
最初は、僕の習いたての中国語をみてもらったり、近況報告なんかをしたり、dodoに頼まれていた日本で開催されるマンチェスターシティのサッカーのチケットを渡したりして(dodoはサッカーの大ファンなのだ)時間はすぎていったけど、徐々に会話は核心に迫っていった。
「今日はdodoにいろんな話を聞かせてもらいたいんだけど」
僕は、恐る恐る話を切り出してみた。
「いいよ、何でも聞いて」
dodoは笑顔であっけらかんと僕に言う。
僕はもう開き直って単刀直入に聞いてみた。
「あのさ、dodoは台湾独立派なの?」
言ってしまった。しばらくの沈黙。そしてこんな回答が返ってきた。
「独立って言葉は気をつけないといけない言葉なのよ」
僕は、直感的にしまったと思った。dodoが発した言葉の意味が掴めずにいた。
「独立ってことは、わかる? 何かに帰属しているから独立ってことがありえるわけ」
「うん……」
「台湾は、別に中国に帰属してはいない。だから独立じゃなくて建国なの」
台湾で習う歴史はほとんどが中国のもの
dodoは1981年生まれで、僕とほぼ同世代。外省人(※1)の父親と南投人(※2)の母親との間に生まれたハーフ(自分で言っている)だ。でも、今どきは、外省人なんて言葉は、時代遅れの言葉だから、dodoは使わないと言っていた。昔は、外省人はタロイモ、本省人はサツマイモと呼ばれたらしい。
※1:国民党とともに中国から渡ってきた人のこと
※2:台湾の南投地方に住んでいる台湾人のこと
父親はサラリーマン。母親は、ある新聞社に勤めていた。その新聞社は、保守系の新聞として知られていた。生まれたところは、現在の大安区、大安森林公園のあるところで、眷村と呼ばれていた。そこは、外省人が集まる地区で、周りには、外省人、国民党の人間しかいなかった。
でも、中国の各地から集まっていたので、いろんな中国の方言を聞いて育ったという。眷村の周りには、台湾人が住んでいて、そこには「壁のない壁が存在した」んだそうだ。10歳頃まではそこに住み、やがて、取り壊しにあうことになって引っ越す。ちなみに通っていた小学校はエドワード・ヤンの映画『ヤンヤン夏の思い出』の舞台となった龍安国小だ。
「学校では台湾人の子どもたちとも仲良く遊んでいた、台湾語も話せたし、楽しかった。でもさ、台湾の小学校の授業の教科書って地理歴史が10%くらいなのよ。それもほとんど中国のものなの。そんなの行くこともないし、覚えても意味ないよ! ってずっと思っていた。それよりも台湾の他の地域の地理や歴史を覚えたい。私、地理歴史好きだし。でも、中国大陸も中華民国の領土だから、覚えないといけないという大義なのよ。これって本末転倒じゃない?」