また、その場限りだと思って話をしていないから、何年たっても過去の会話を忘れません。数年ぶりに話したのに、私の家族の名前がすらすら出てきます。「2年前に、仕事のことで悩んでいたよね。どうなった?」と、私が忘れかけていたことまで記憶しているから驚きです。

人の話を聞く姿勢からしてそうです。理解したら相づちを打ち、疑問があれば質問して、「こういうことだよね」と自分の言葉で言い直して確認します。そうやって相手の話を全力で聞いていることが行動として現れると、「自分のことを大切に想ってくれているんだな」と素直に思うことができるのではないでしょうか。

これは友人に限った話ではなく、ビジネスでも通じるところがあるでしょう。お互いに「私は○○会社の開発担当者」「私は△△会社の営業担当者」という「肩書レベル」でのお付き合いをするより、1人の人間として敬い、関係を築くほうが、仕事に有益なだけでなく人生も豊かになります。そういう意味では、なるべく仕事感を消し、「個人としての相手を大切に思う」姿勢を前面に出したいものです。

日本の旧来のやり方は、グローバル社会では馴染まない

アメリカの文化人類学者で異文化コミュニケーション学の先駆者といわれるエドワード・ホールは、「日本人は公私の切り分けがとても強い」と指摘しました。仕事中は「公」の自分であることを前面に出そうとするあまり、自分のなかの「私」をなるべく殺そうとする傾向がありませんか。結果、ガードも固くなり、話題や話し方も固くなりがちに。もしかしたら、人間関係も肩書を中心とした無味乾燥なものになってしまうかもしれません。

グローバル社会において、ガチガチの公の顔だけを前面に出していくと「そっけない人だ」とか「自分に興味を持っていないのか」と取られてしまうかもしれません。それでは損ですよね。せっかくのあなたの人間味が伝わらない。日本人にとっても大切な考えである「一期一会」を有効活用できなくなってしまうかもしれません。

このように、日本の旧来のやり方が、グローバル社会では馴染まないことが多々あります。私は、その根本には、「多様性の扱い」に対する練度の違いがあると思っています。多様性の本質とは、「人と人は違う。それは良いこと」という信念です。人々の違いを「素晴らしいこと」と位置づける発想です。それは、同調圧力が生む「なるべく周りに合わせよう」という考え方とは、真逆に位置します。

例えば、恩師の退官祝いに皆で「お花でも贈ろう」と盛り上がっているところに、ひとりだけ「私はお花は贈りたくない」という人が現れたら、その意見を「これはむしろ、もっと気の利いたお祝いを考える機会である」と捉えるのが多様性を大切にしたグローバル的な考え方でしょう。一方で、「皆で盛り上がっているところに水を差すようなことを言って。協調性のない人だ。面倒くさい」とばっさり切り捨てるのは、同調圧力の強い考え方です。

グローバルは文化が違う!