「バナナの皮=自分の責任」という妄想

40過ぎの真面目な会計係の女性は、自身のパソコンがウイルス感染して会社の情報が漏れ、ひどく落ち込んでしまった。

ITの取り扱いには自信があり、今まで真面目に一生懸命やってきた。それが、たかだか1回のクリックで感染を許してしまったことで自信喪失し、過剰な責任を感じるようになった。

窓際に座って孤独な女性
写真=iStock.com/bee32
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幸い情報漏れは軽微で済んだが、一歩間違えれば大規模な顧客情報漏れを起こしていた。

責任の重大さに打ちのめされた彼女は、パソコンに触れるだけで心臓がバクバクするようになり、キーボードが濡れるほど手汗をかくようになった。そして、通りに落ちている「バナナの皮」にも不安を感じるようになった。

拾って近くのごみ箱に捨てたなら、所定のごみ袋を使わず、勝手に他の住人のごみ箱に捨てたと責められるだろう。

かといって、そのまま放置し、もし老人が滑って転んだら、拾わなかったことを咎められかねない。

近頃、監視カメラもついているのだ。結局、彼女はバナナの皮を拾って家に持ち帰らざるを得なかった。

「ほんの些細なことで生活のすべてを奪われるかもしれない」という恐怖心

ばかばかしい関係付けともいえるが、たまたま遭遇したバナナの皮という些細な情報に囚われ、自らその責任を拾ってしまったのだ。

複雑化した今の社会では、これに似たジレンマが至るところで起きている。すでに医療の現場でも、責任を問われることを恐れ、ディフェンシブ・メディスン(防衛的医療)の傾向が色濃く出始め、過剰な検査を行って客観性を装える、データとマニュアルだけでの診療が進んでいる。

人々はこの豊かに見える時代に何か不安を感じ始めている。

ほんの些細なことで大きな罪を負わされ、給与や地位、生活のすべてを奪われるかもしれない恐怖心を抱いている。そんな深層心理があり得ない「妄想」を引き起こす。