100年前の日本で「商人」はバカにされていた。「日本の資本主義の父」といわれる渋沢栄一は、そこで「儲けることは正しい」と主張するため、名著『論語と算盤そろばん』を書いた。その真意はどこにあったのか。東京画廊代表の山本豊津氏と公認会計士の田中靖浩氏の対談をお届けしよう――。(第2回/全3回)

※本稿は、山本豊津、田中靖浩『教養としてのお金とアート 誰でもわかる「新たな価値のつくり方」』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市)に立つ渋沢像
写真=PIXTA/絵夢島
渋沢栄一記念館(埼玉県深谷市)に立つ渋沢像

1867年パリ万博で渋沢が見たもの

【田中】渋沢栄一は「日本の資本主義の父」と称されることが多く、その名の通り、銀行(第一国立銀行〔現みずほ銀行〕)や東京証券取引所といった金融の礎をきずきました。渋沢が2024年から一万円札の肖像になると決まったとき、意外と渋沢を知る人は少なかった印象があります。これは渋沢があまりにもいろいろなことをやりすぎて、「何をやった人」と、ひと言で語れないことが原因だったように思います。それくらいすごい人だったわけです。

【山本】渋沢栄一がつくった会社って半端な数じゃないでしょう?

【田中】はい。500社を超える株式会社の設立に関わっています。渋沢は江戸末期の1867年、20代半ばで幕府高官に随行してパリ万博を訪れました。ここで彼の運命が変わったと言えるでしょう。低い身分の江戸商人と比べて、パリの実業家は国と文化を支える堂々たる存在だった。その事実は彼に相当の衝撃を与えたはずです。

コレクションを築くように多数の会社を設立

【田中】そこで見た金融制度や会社組織を彼は日本に持ち帰ろうとします。その一つが簿記でした。帰国後、大蔵省に勤務したときは、まわりの反対を押し切って西洋式の簿記を導入しました。そして株式会社の普及にも尽力し、多くの会社設立に携わっています。

株式会社の存在すら知らず、運営の仕方もわからない明治初期の日本において、みんな渋沢を頼りにしたんでしょう。本人も頼まれたら「しょうがない、手伝ってやるか」って言っているうちにどんどん数が増えていったんだと思います。おそらく自分がやりたいからというより、頼まれて手伝っていたのだと思います。

【山本】渋沢栄一にとって会社はコレクションの一種なのかもしれませんね。彼は大倉財閥設立者の大倉喜八郎さんとすごく親しかったのですが、大倉さんは大倉集古館というコレクションを残しています。渋沢栄一にとってのコレクションは会社だったんでしょうね。