日本美術協会の評議員も務める

【山本】美術的な側面から渋沢を見ると、彼は1887年に日本美術協会の評議員を務めています。この協会は日本美術振興が目的で、どちらかと言うと伝統絵画の保存がメインです。渋沢は1867年にパリ万博を視察したので、世界に輸出できる文化が伝統的な表現だと考えたのでしょう。これは東京藝術大学を設立した岡倉天心にも見られる思考です。岡倉も1898年に日本美術院を創設して、西洋美術の真似事ではなく伝統的な日本の絵画を近代的に発展させる構想をもちました。

二人とも新しい日本美術の在り方を考えていたにちがいありません。新しい文明である西洋文明を輸入しようとした二人は、ただのグローバリストではなく、ローカルな文化を育む改革をしようとしていた。実は西郷隆盛や、彼を評価していた福沢諭吉にもその気概があることを見落としてはいけないでしょう。

【田中】会社がコレクションというのは悪い意味ではなく、社会貢献として多くの会社設立に関わったということですね。

「ビジネスマナー以前」だった明治期の日本人

【山本】もう一つ、注目したいのが、渋沢栄一は財閥を残していないこと。三井や三菱、そして大倉も財閥だったけど、渋沢栄一や福沢諭吉はそこには関心がなかったのかもしれない。福沢諭吉の弟子たちは財閥をつくったけど、福沢本人は慶應義塾をつくって人のコネクションを残した。銀座には「交詢社」という慶應義塾のコネクションがいまもサロンとして生きています。

【田中】江戸から明治になってグローバル化が始まった頃、当時の日本人は昨今の国際社会でのイメージとは少し違い、マナーを守らなかったり、すぐ約束を破ったり、人をだまそうとしたりしていたようです。

ビジネスの現場でも平気で遅刻はするし、約束は破る。建設現場では新たに導入されたダイナマイトを適当にいじって爆発して死んでしまう人が多かった。日本人を指導したフランスの技師は「こいつらは勇敢なのかバカなのか、何なんだ」と呆れたそうです。いわゆる無鉄砲で単純な人間が多かった。だから、渋沢栄一が書いた『論語と算盤』は意義があったと思います。