働き方の自由と選択の幅は広がってゆく
とはいえ、未来はその大部分が不透明だ。コロナ収束後、リモートワークがどこまで定着しているのかも定かではない。確かにリモートワークに関しては、10年前まで「夢」とされていた導入率を軽く達成できることがすでにわかっている。もっと自然豊かな地域に暮らしたい人々や幼子を抱える共働き世帯にとって、これは状況を一変させる切り札になりうる。子育て中の共働き夫婦であれば、夫婦それぞれが自分の時間を細かく分割して家庭と仕事にうまく振り分けられるメリットがある。
では、わたしたちは、オフィスを捨て、コンピュータの画面に向かって毎日を過ごすようになるのだろうか。リモートワークが何カ月にも渡って続くようになって、一部の人々にとっての正解が必ずしも全員にとっての正解ではないことが徐々に明らかになってきた。
リモートワークを望む人であっても、同僚や仕事仲間と一緒に過ごす時間を楽しみ、恩恵も受けている。つまり、仕事の世界は、以前よりも自由度と選択の幅が広がっていくはずだ。だが、コロナ禍が過去のものとなり、ある程度の歳月が流れない限り、細かい部分まで余すところなく語ることは時期尚早だ。
テクノロジーに関して自信過剰になってはいけない
第2次世界大戦の経験からは、テクノロジーの将来に関する教訓も得られる。危機の真っ只中では、テクノロジーを生み出す者は、その製品の将来について往々にして自信過剰に陥りがちだ。
1943年、「これから戦争が終わってヘリコプターの量産化が進めば、誰もが手の届く価格になり、技術改良の進展を受けて、中型車並みに簡単に操作できるようになる」と、ある航空機メーカー幹部が発言している。
同じ年、デュポンの経営者は、近い将来、「割れないガラスや水に浮くガラス、燃えない木材、革を使わない靴、木材も金属も使わない家具」が出現すると聴衆に語ってみせた。
言うまでもなく、こうした夢の大部分は依然として夢のままだ。コロナ禍でテクノロジーの未来が恒久的にどう変わるのか見通すうえで、これは特に重要なヒントではないだろうか。大切なのは謙虚な姿勢である。視界は徐々に晴れてきている。この嵐がいつかは通り過ぎることをわたしたちは知っている。
だが、1週間後、1カ月後、あるいは1年後の天気がどうなるのか予測するとなると、それはまた別の話なのだ。ひたすら学びと適応を続けていくほかはない。ともに手を携えて。