空気感染するか分からなければ「する」という前提で
この論文には年齢別致死率の数字も記されていた。50から59才までは致死率1.3パーセント。しかし、60から69才になると3.6パーセント、70から79才は8.0、80才以上は14.8パーセントに跳ね上がる。
「若年者は重篤化しないというのはあるかもしれないと思いました。ただ、ぼくたちは子どもだけを相手にしているわけではない。今の日本では60才以上って働き盛りなんてす。その年代が重症化する肺炎を流行らせてはならない」
2017年時点で鳥取県は人口の30.4パーセントが65才以上という高齢県である。このウイルスが万が一、県内で広がったら大変なことになる。一帯の基幹医療機関である、とりだい病院として徹底的に策を講じる必要があった。千酌は病院長の原田省と話し合うことにした。
「私は本当に悲観的なことしか言いませんでしたね。これはまずいですよと。ロックダウンまで行くかどうかは分からなかったけれど、普通じゃないものが流行ろうとしている。これを克服するにはワクチンか治療薬の開発しかない。それまで数年間は掛かる、と」
原田が千酌の提案を理解し、全面的に受け入れてくれたことが心強かった。とりだい病院では、ウイルスと接触する可能性がある医療従事者には空気感染を防ぐN95マスク、防護服の着用を徹底させることになった。
「この感染症が空気感染するかどうか。当時は空気感染する証拠はなかった。しかし、流行りだしてまだ半年も経たない感染症なんです。それに対して、違うウイルスの知見を持って来て、こうだなんて信じられない。ぼくは理科の人間だから論理を重視する。分かっていないから、いいですよという考えには従うことはできないんです。つまり、空気感染するか分からないのならば、するという前提で対応すべき。これは危機管理の問題でもあるんです」
絶対に病院に(新型コロナウイルスを)持ち込ませたらいけないんですと語気を強めた。
通常業務に戻れるまで一年かかる可能性
千酌が部長を務める感染制御部は、診療科を越えた横断的組織だ。医師、看護師、薬剤師、臨床検査技師、事務員で構成されている。
感染制御部で千酌の右腕とも言える存在が、看護師の上灘紳子である。
上灘は今回の新型コロナウイルスの第一報に接したとき、2009年春の新型インフルエンザを思い出した。
代表的な感染症の一つ、インフルエンザは、ウイルスが体内で増えて熱や喉の痛みの症状を引き起こす病気だ。気道で局所感染し、強い咳を伴うため、多数の人々に感染が広がる。遺伝子に変異が起こりやすいため、以前の感染で作られた免疫抗体では対応できず、毎年流行するのが特徴である。
2009年5月9日、成田空港の検疫で新型インフルエンザの患者が検知され、兵庫県と大阪府内の高校を中心に集団感染が明らかになった。
「厚生労働省の大臣だった舛添(要一)さんが真夜中でも何度も会議を開き、膨大な資料が県や厚生労働省から送られてきた。必要な部分だけ選んでかみ砕いて書いたものを、病院内で共有しました。幸い、死亡率は低くて、結果的に(山陰地区で)深刻な影響は出ませんでした。ただ、その間は普段の仕事が手に付かず、全部後回しにしていたので、通常の仕事に戻るまで一年ぐらい掛かりました。もしかしてあのときのようなことが起こるのかなと思いました」