家庭で培われた不屈の精神
それまでの道のりはまさに山あり谷ありだった。新卒で入社した大手玩具メーカー「タカラトミー」では、商品広報から企業広報まで携わる。その後、食に関わりたいという夢を抱いて、ケータリングとスイーツを手がける会社へ転職したものの、東日本大震災後の売り上げ低迷で解雇されることに。さらにファッション業界へ飛び込み、「DoCLASSE」で40代以上の人をターゲットにした通販ブランドの広報に孤軍奮闘した。
大企業からベンチャーの立ち上げまで経験するなかで、挫折や失敗もさまざま乗り越えてきた工藤さん。そのチャレンジ精神はどこから湧いてくるのだろうか。実は生まれ育った家庭で培われたのでは、と振り返る。
「父がすごく厳しい人だったので、何をやっても褒めてもらえなくて(笑)。だから、私も満足できなくて、ずっと挑戦し続けているのかもしれませんね」
TVキャスターとして真摯に報道に携わる父、家族のために料理に愛情を注ぐ母、そんな両親の姿を見ながら、自分も好きな世界で何かを伝えたいと思っていた。玩具、アパレルなど異業種を渡り歩くなかで、いちばん好きなのは食べることだと気づいた工藤さん。ついに35歳になったとき、思いがけず舞い込んだのが「春水堂」で広報をする仕事だった。
ブームの先にある新たな市場をつくりたい
もともと住環境の水回りビジネスから始まり、アパレルやカフェ運営と3事業を手がけるのがオアシスライフスタイルグループ。その中で「春水堂」の日本展開を担ってきた木川瑞季さんから声をかけられたのである。
かつてマッキンゼーでコンサルティングに携わっていた木川さんは、駐在先の台湾で出合った『春水堂』本店に魅了されたのち、友人から「春水堂の海外店舗一号店が代官山にオープンする」という知らせを受けてべンチャーへ飛び込んだ人。工藤さんは「DoCLASSE」時代、広報の勉強会で彼女と知り合っていた。
あるとき飲み会の席でポロッと漏らしたことがあった。7年近く勤めた会社に愛着はあり、仕事も充実していたが、そろそろ次の道を考えていること。すると木川さんは「転職する気があるの?」と驚き、翌日にはオアシスライフスタイルグループの広報に誘われる。だが、すぐに心は動かなかったと明かす。
「タピオカミルクティーはもう日本でもブームになっていて、これだけはやっているものを広報するのはどうなんだろうと。広報としては、まだ世の中に出ていないものを広めたいというプライドもあり、これは私の役目ではないんじゃないかなと……」
それでも気になったのは、木川さんが「『春水堂』本店のタピオカミルクティーのおいしさに衝撃を受け、絶対に日本で出したいと思った」という話を聞いたこと。自分も行ってみたくなり、「とりあえず私も見てきます」と答えると、多忙な木川さんも同行してくれるという。すぐに飛行機のチケットを取ると、現地でいろいろな店を巡ることになり、台中で1983年に創業した「春水堂」本店にも足を運んだ。
趣ある伝統工芸を配したインテリアときめ細かなサービス、こだわり抜いた春水堂の世界観に工藤さんも魅了される。社長自ら語ってくれた創業の思いに胸を打たれたという。
「春水堂では台湾茶を文化として継承していくため、若者が好きなお茶を作ろうということでアレンジティーを作り始めたといいます。若者がお茶を飲まなくなったので、時代に合わせた飲み方を開発する中でタピオカミルクティーが作られたのです。もともとお茶を飲んでほしいという思いが根底にあるから、とにかく品質にこだわり、茶葉はすべて無添加。香料、フレーバー、防腐剤も一切使わない。タピオカは茹でたてのものを使い、シロップも毎日手作りし、ドリンクは認定を受けた『お茶マイスター』でなければ作れません。
台湾には春水堂のカフェが52店舗あり、家族連れやカップル、老若男女それぞれにご飯を食べながら、アレンジティーを楽しんでいる。その姿を見たときに私も、『タピオカミルクティーのブームのその先にある“お茶市場”を日本でつくりたい!』と思ったんです」