長く語り継がれる悲劇

そして、①の霞ケ関駅では、長く語り継がれる悲劇が起きた。

〈午前8時頃、乗客が「先頭車両に異臭を放つものがある」と通報。かけつけた高橋一正助役(50)が、新聞紙に包まれた容器を素手で200メートル離れた駅事務所まで運んだ。高橋助役はその直後に気分が悪くなり病院に運ばれたが、午前9時23分に死亡した。〉

地獄絵図、阿鼻叫喚。新聞紙面に躍ったそんな四字熟語が陳腐に思えるほど、あまりにも凄惨な現場だった。

事件発生から数時間とたたないうちに、警視庁は、残留物からサリンが検出されたと発表する。この時点で、私のオウムへの疑いは確信に変わった。

サリン事件から2日たった3月22日、山梨県上九一色村のサティアン群など、オウムの教団施設への強制捜査が始まった。4月に入ると、幹部クラス6人を次々に逮捕。教祖・麻原は、5月16日、上九一色村の隠し部屋に潜んでいたところを発見される。

新聞もテレビも雑誌も目の色を変えた。ありとあらゆるマスコミが、記者とカメラマンを総動員する態勢を整えた。この年1月17日に阪神淡路大震災が起こり、当時のマスコミは地震報道を中心に据えていた。それがサリン事件を境に、紙面も画面も誌面もオウム一色に塗り替わる。

ワイドショーで流れた刺殺シーン

とりわけ血眼になったのが、民放テレビ局だ。朝と午後の各局ワイドショーは、ほとんどの時間をオウムで埋め尽くし、夕方から夜にかけては、「緊急報道スペシャル」とか、「報道特別番組・オウム真理教」略して「オウム特番」で競い合う。

逮捕が近いと囁かれるオウム幹部には、100人を超える記者と何10台ものカメラが張り付き、追いかけ回す。そんな「オウム取材フィーバー」のさなかに、惨劇が起きる。

4月23日夜8時30分過ぎ、取り囲む200人もの報道陣の目の前で、オウム幹部の村井秀夫が刺殺されたのだ。

港区南青山にあった、教団の東京総本部に入ろうとする村井に記者たちが群がり、質問を浴びせる。そこに突然、男が現れ、大型のナイフのようなもので、左腕と右脇腹を続けざまに突き刺した。苦悶に歪む村井の顔、騒然とする現場……その一部始終が、居合わせたテレビ局のカメラに収められたのだ。

刺殺シーンはワイドショーだけでなく、通常のニュース番組でも繰り返し流された。世論の厳しい批判を浴び、テレビ各局がようやく放映中止を決めたのは、4月27日のことだ。

犯人は、右翼の構成員を名乗る暴力団員だった。しかし供述は曖昧で辻褄が合わず、オウムとの接点も、背後関係も不明のまま、懲役12年の刑に服す。

殺された村井は、オウムの科学部門担当の責任者。サリン事件にからむ「口封じ」説も有力だったが、今に至るも真相は明らかにされていない。