こうした視点で新しい元号を分析すると、日本は広い意味で東アジアの漢字文化の一員なのだ、というグローバルな意識が読み取れます。さらに、九州・大宰府の梅花の歌の序文からとられたということもポイント。大宰府は外国文化の玄関口です。これからは地方の時代だけれども、いわゆるローカリズムと、国際化やグローバリズムが同時に進んでいく、ということです。

奈良時代は、非常に日本が世界に開かれた時代

万葉集』の生まれた奈良時代は、非常に日本が世界に開かれた時代でした。漢字や儒教、仏教、律令という中国文化に憧れ、広く受け入れていたのです。新元号の出典となったのは梅の花見の場で詠まれた歌ですが、その梅の花も、当時は中国から伝わった外来種として珍しがられた植物でした。平城京から大宰府に赴任した役人たちは、梅の白さと、香りの高さに魅了されたんですね。

しかし、彼らはそれを、漢詩ではなく、日本の言葉を使い、和歌で伝えようとした。巻五の32首のなかには、次のような歌があります。

正月むつき立ち 春のきたらば かくしこそ 梅をきつつ 楽しきへめ
(巻五の八一五)

が園に 梅の花散る ひさかたの あめより雪の 流れ来るかも
(巻五の八二二)

ひとつめは、紀朝臣男人きのあそみおひとによる歌です。「お正月となって、春が来たなら、毎年毎年こうやって梅を迎えて、楽しい時を過ごしましょうよ」と言っているんですね。ふたつめは、宴の主人である大伴旅人が詠んだもの。「私の家の庭に梅の花が散ったよ。それはね、天から雪が流れ来るようにね」という内容です。この、外国の文字である漢字を借りて、大和言葉を記そうという発想そのものが、グローバル、かつローカルな発想ではないでしょうか。このような、外国の影響を受けつつ日本固有のものをつくろうという創意工夫を凝らした『万葉集』という作品から新しい元号がつくられたわけです。

また、この歌のなかでは常に穏やかで優雅な時間が描写されていますが、『万葉集』の時代は、決して穏やかな日ばかりではありませんでした。飢饉や政変に人々は苦しめられ、朝鮮半島や中国との外交も困難を極めていました。日本の今の状況と重なる部分が非常に多いなと、私は感じています。