“上祐の定期便”
ところが『週刊文春』に対しては、激しい抗議や嫌がらせ、直接的な攻撃はほとんどなかった。
厄介なことといえば、キャンペーンの担当デスクだった私に、オウムの上祐史浩外報部長が毎週、抗議の電話をかけてくることだった。決まって、『週刊文春』が発売される木曜日の夕方5時ごろ、内容はいつも同じだ。
「あなたは信教の自由ということがわかっていない」
「我々が事件に関与したという証拠があるんですか」
「これは宗教弾圧ですよ」
「いつまで記事を続けるんですか」
冷静かつ論理的ではあるが、速射砲のように畳み掛けてくる。私がひとこと言えば、何十倍も返ってくる。まさに「ああ言えば上祐」で、私はほとんど聞いていただけだ。
最後はいつも、
「もう告訴するしかないですね」
「訴える訴えないはそちらの判断ですから、私がとやかく言うことじゃない。確信があるから、記事は続けますよ」
というやり取りで終わる。そんな抗議の電話が、ほぼ毎週のように一時間から一時間半くらい。私はその電話を“上祐の定期便”と呼んでいた。
オウムから8件の刑事告訴
自宅への嫌がらせは多少あった。夜中にかかってくる電話は、無言だったり、「ふっ、ふっ」と不気味な声だけ残して切れる。
ある日、深夜に帰宅すると、マンション一階の集合郵便受けに、ずらっとオウムのパンフレットが差し込んであった。まるで花束でも挿したように整然と並んでいる。
よく見ると、我が家のポストにだけ入っていない。
なるほど、我が家にだけ差し込んであったら、たいした効果も迫力もなかっただろう。よく考えるものだな、と感心したが、さすがにいい気持ちはしなかった。
オウム真理教に対する強制捜査が一段落し、麻原や主だった幹部が逮捕されたあと、私は検察庁に呼び出される。「あなたは全部で8件、オウムから刑事告訴されていました」と告げられ、仰天したが、当時は知る由もなかった。簡単な上申書を提出して一件落着となったのは、言うまでもない。
オウムの敵意や憎悪は、キャンペーンを牽引した江川さんに向けられ、小柄な彼女が一身に背負ってくれたのだろう。
「地下鉄サリン事件」の予行演習
オウムの暴走は、もはや止めようがなかった。
①1994(平成6)年6月、すでに述べた松本サリン事件。
②同年7月、上九一色村で異臭騒ぎ。異臭が発生した現場近くの土壌から、サリンの原料にもなる有機リン系化合物が検出される。
③1995(平成7)年3月5日、京浜急行電車内で異臭事件。下り普通電車が横浜駅を発車した直後、乗客が異臭を感じ、目の痛みや咳を訴え、救急車で運ばれた。
④同年3月15日、東京・霞ケ関駅構内で不審なカバンを発見。中には噴霧器が三個入っていて、いずれも時限式かつ超音波振動式だった。
そして、同年3月20日、地下鉄サリン事件という未曽有の大惨事が起こる。
捜査当局は、②から④までの事件はすべて、「地下鉄サリン事件」の予行演習だったとみている。
長いあいだ謎とされていたのが、事件③だ。なぜオウムは、京浜急行という地味な路線を選んだのか? なぜ横浜発の普通電車なのか?
江川さんが、『週刊文春』3月30日号に書いている。