働いていれば、苦しいことはいくらでも起こる。今ではコメンテーターとしてもおなじみの作家・江上剛氏も、銀行員時代に「総会や利益供与事件」に巻き込まれ、さらに50歳での銀行退職後にも「日本振興銀行事件」に関わり、ともに戦った仲間の自殺を再び経験した。江上氏は「それでも、経験は無駄にはならなかった。五十路(いそじ)とは、自分の人生を受け入れる年齢だ」と語る――。

※本稿は『会社員人生、五十路の壁』(PHP新書)を再編集したものです。

日本振興銀行の社外取締役になったわけ

私は1997年の第一勧業銀行時代、戦後最大規模の金融スキャンダル「総会屋利益供与事件」を経験し、これまでも多くの場所でその経験を語ってきた。

私にはその事件以外に、もうひとつ忘れられない出来事がある。

日本振興銀行事件だ。

銀行を50歳直前に退職し、作家やコメンテーターとしての仕事も順調だった時、朝日新聞の友人を通じて金融庁顧問である木村剛さんが作った日本振興銀行を助けてほしいと頼まれた。

中小零細企業を支援する銀行だと言う。当時は、貸し渋り、貸しはがしで中小零細企業が苦しんでいた。

私は銀行員時代の経験から、中小零細企業への支援の必要性を痛感していたので引き受けた。社外取締役として、木村さんへのアドバイスができれば――そう考えた。

『会社人生、五十路の壁 サラリーマンの分岐点』(江上剛著・PHP研究所刊)

木村さんは、1985年の日本銀行入行後、華々しいキャリアを重ねた銀行界のスーパーエリート。彼が中心となって作成したと言われる金融庁の検査マニュアルで私たち銀行員は指導を受けていた。実際、私は彼の検査マニュアルの講義を大勢の行員たちに交じって遠くから拝聴した経験もあった。

私は、自民党の平将明さんらとともに社外役員になった。

木村さんに何度も言ったのは、「銀行はストック商売で焦ると、腐りやすいからね、中小零細企業とは対面融資が原則だよ」などということだ。

木村さんは私たち社外役員のアドバイスを傾聴してくれていたように思った。

彼は、私の目からはぜいたくするような人に見えなかったし、真面目に取り組んでいた。

刑事事件のあとに引き受けた「役割」

しかし、成果に焦っていたのだろう。株主からの圧力もあったのではないか。

また当時の金融庁をひどく敵対視していて「金融庁につぶされる」と警戒していた。その理由は私には分からない。なぜそれほどまで金融庁と敵対するのか、彼は理由を明確にしなかった。

日本振興銀行は中小零細企業のための銀行としてスタートしたこともあって、不良債権も多かった。創業者の木村さんの考えもあって、金融庁の方針に従いつつも、あまり従順ではなかった。

金融庁が検査に入った時、検査忌避や検査妨害の疑いをかけられてしまった。そのため、金融庁に告発され、ついに警察が強制捜査に入り、刑事事件化してしまった。

私も取り調べの対象となり、検事から「社外役員の方はかわいそうでしたね」と同情された。私たち社外役員には、経営の真の実態が報告されていなかったのだ。それを見抜くのが社外役員だろうと言われれば、反論のしようがないので、これ以上は言うまい。