「夏の甲子園」準優勝後、渡米。米メジャー球団から指名
夏の甲子園が終わり、野球部の活動を終えた高校3年の初冬。エースの田中将大投手は楽天イーグルスに入団。一方、鷲谷さんは自らの進路を決めあぐねていた。「野球だけでは終わりたくない」という気持ちがあったからだ。
そこで、国立の筑波大学(推薦枠)を目指して、勉強に打ち込んだ。持ち前の集中力を発揮し、やればやるだけ結果も出た。ミスをするとチームに迷惑をかけたり、監督に怒られたりする野球より、自分ひとりでコツコツやる勉強のほうが気楽に感じるぐらいだった。だが受験結果は不合格。世の中そう甘くはなかった。
鷲谷さんはすぐに気持ちを切り替え、海外留学の準備を始めた。駒大苫小牧は野球だけでなくアイスホッケーの強豪でもある。部の監督は海外遠征を経験していて、よく海外の魅力を聞いていた。また海外留学中の知人もいた。高校卒業後、英語教室に通い、TOEFLの対策を進めた。
そして高校卒業から5カ月目の2007年8月、カリフォルニア州立デザート短期大学に合格した。少しでも自分を売り込む材料になればと、自分が野球をプレーしているビデオを短大に送付していたことも功を奏したようだった。
短大では、野球部に在籍。監督の家にホームステイをしながら野球に打ち込んだ。すると1年後に、想定外のできごとが発生した。米メジャー(MLB)球団から、スカウトされたのだ。このときは契約を断った。メジャーで通用する自信がなかったからだ。だが徐々に野球の熱が高まってきた。
「やるなら、頂点を目指す。日本人の野手でマイナーからメジャーに上がった人はいない。そのフロンティアに自分がなってやろう。そして10年、20年、メジャーでやろうと思ったんです」
▼マイナー契約で年俸は60万円「同じ土俵では戦えない」
そして短大を卒業した2009年、ワシントン・ナショナルズからドラフト14位で指名され、入団する。ただしマイナー契約のため、年俸は60万円ほど。結果を出せばメジャーでプレーすることができるが、米国だけでなく、中南米やアジアから集まる「腕に自信あり」の若い選手と競い合わなければいけない。そのとき自分の実力を知ったという。
「球速160キロオーバーのピッチャーがたくさんいました。しかもバッターはそんな剛速球を簡単にホームランで打ち返してしまう。バッティング練習は、まるで肉食獣のハンティングを見ているような迫力でした。同じ土俵では戦えないな、と悟りました」
1年目を最下層のルーキーリーグで過ごし、2010年6月、肩のケガなどを理由に解雇された。21歳にして、大きな挫折感を味わうことになったのだ。
「球団の担当者から『君を解雇するが飛行機のチケットはどこまで欲しいか』と聞かれて、日本まで、と答えました。夢をあきらめていいのか、他のチームを探さなくていいのか。葛藤もありましたが、解雇されて安心している自分に気付きました。日本に帰りたかったんですね」