我慢こそが運を呼び込む

ボクだって、最初からお笑いが好きだったわけじゃないし、まして才能に恵まれていたわけでもありません。自分はダメだと自覚したから、努力もしました。具体的にいうと、普通の人より「一歩」、いや「二歩下がったところから頑張ろう」と決めたんですよ。

ミュージックホールではフィナーレで、ボクらも踊り子さんと一緒にダンスを踊るんだけど、ボクだけが流れに乗れないの。客席からは失笑を買うし、演出の先生からは「欽坊、おまえはリズム感なさすぎ」とダメ出しをされて、とうとう舞台からはずされました。

そこで独習しかないと、ボクはまず一歩下がりました。さらにダンスではなく、まずリズムを身体に覚え込ませようと、ジャズドラムの教本とスティックを買ってきて練習したの。これで二歩下がったことになるでしょう。

もちろん辛いですよ。だけど、修業時代なんだから、じっと我慢するしかない。そんなとき、ボクは「石の上にも5年」と考えて耐えました。なぜって、我慢こそが「運」を呼び込むからです。

そうした失敗や辛い修業のなかで「人生の方程式」をいくつ作れるか。それが後々生きてきます。1966年に結成したコント55号でブレークしたときも天狗にはなりませんでした。チャップリンやエノケンになりたいと思っていたからです。2人と比べたら、やっと“足元”じゃないですか。

実はチャップリンが映画を作ったように、自分で自分の番組を制作するのがボクの夢でした。だけど、当時は超多忙ですぐには動けません。それなら、じっくり取り組もうと考えて、67年に立ち上げたのが「パジャマ党」です。世田谷の自宅に放送作家志望の若者4人を集めました。彼らにはコントの作り方も台本の書き方も教えていません。まったく新しいギャグを作ってほしかったからです。

大変だったと思いますよ。保証されているのは「三度の飯」と「寝る場所」だけ。それなのに、早い子で半年、遅くても4年で彼らのなかにある個性が“発酵”し始めたの。ラジオ番組で人気が出るようになり、テレビに進出し、レギュラー番組が持てました。やはり「石の上にも5年」は正しいでしょう。