何度も何度も、繰り返し見てきた風景のなかにぼくは立っていた。

津波に襲われ瓦礫に覆われた町――。宮城県南三陸町志津川。テレビの映像や新聞の写真を通して町をまるごとのみ込む津波の力に驚き、おののいていた。けれども、ぼくは映像や画像からは決して伝わってこない確かな痛みをこの両肩に刻んだ、この日を決して忘れない。

東京に暮らすぼくが被災地からの電話を受けたのは本震翌日の夜。仙台市の出版社「荒あ らえみし蝦夷」の代表取締役・土方正志さん(48歳)からだった。十数年前まで東京でフリーのライターや編集者として活動していた土方さんは、民俗学者・赤坂憲雄さんが提唱する「東北学」に賛同して「荒蝦夷」を設立した。10年ほど前から、山形県出身のぼくも土方さんたちとともに東北各地を歩いてきた。

もちろん南三陸町も、だ。

「経験したことがないほど激しい揺れだった。死ぬかと思ったよ」

阪神・淡路大震災をはじめとして長年多くの被災地を取材してきた土方さんの言葉に被災の現場がどれだけ凄まじいか想像した。スタッフは全員無事だったものの、土方さんの自宅マンションは半壊して立ち入りできない。編集部が入るビルも僅かだが傾き、連続する余震に耐えられるか心配だと話した。スタッフや妻らと自動車や近所の寺院で寝泊まりしていた。なかには被害が甚大な気仙沼市で暮らす家族全員と連絡がとれない者もいるという。土方さんは「いまはとにかく食い物が足りない」と語った。

13日、ぼくは自動車に20キロの米、40リットルの水、カップ麺やカロリーメイトなどの保存食、ガスがないなかでも自炊ができるようにと卓上用コンロとガスボンベなどを詰め込んだ。すでに東京では水などの買い占めが始まっていた。スーパーをいくつも回ったが必要な物が揃わない。知り合いたちに提供してもらった物資も積んだ。

東北道が通行止めのために関越道で新潟県を北上した。山形県を経由して仙台市に入り、土方さんたちと合流できたのは3月14日19時30分ころ。一時的に山形県に避難して事業の再開を検討したいという土方さんたちとともに、ひとまず仙台市をあとにした。

津波で一帯が破壊され、200人以上の遺体が見つかった仙台市若林区荒浜にて。右端の隊員のもつボートに遺体を乗せる。

津波で一帯が破壊され、200人以上の遺体が見つかった仙台市若林区荒浜にて。右端の隊員のもつボートに遺体を乗せる。

不足していたガソリンをなんとか調達して南三陸町に入ったのは、21日14時頃。京都府から駆けつけた消防士が、瓦礫の海で行方不明者を捜索していた。被災した人々が、わずか10日前まで生活した家があったであろう場所に積もった瓦礫の山の前で、まだ使うことができる物や思い出の品を探していた。

3階まで水に浸かり、多くの患者が犠牲となった公立志津川病院で、ぼくは確かな痛みを感じた。かつて玄関だった場所にいるとひとりの男性が近よってきた。泥と埃でくすんだ紺色のジャンパーを着た白髪交じりの短髪の男だった。60代半ばくらいだろうか。皺が幾筋も刻まれた顔はやつれていた。実年齢はもっと若いのかもしれない。「この病院に入院していたうちの母ちゃんが流された……」彼の声は震えていた。

「死んだっていうのはわかってる。諦めてはいるんだけど……。せめて遺体を見つけてやりてえんだ。それなのにいくら探しても見つからねえ。どこにいるか全然わからねえんだ。津波がきてからもう10日だぞ、10日。それでいいのか? 本当にそれでいいと思うか!」

慟哭した。ぼくの両肩を強く抱きしめて泣き崩れた。ぼくも彼を支えながらただ泣くことしかできなかった。彼は声を振り絞って続けた。

「あんたに怒りをぶつけても仕方がねえのはわかってる。だけどよ、この気持ちを誰にぶつけていいのか、オレにはわからねえんだ……。ここにはオレと同じようなヤツが大勢いる。頼むから全国の人に、できるだけ多くの人に、オレたちの気持ちを伝えてくれ、頼むから……」

彼が去ったあとも、ぼくの両肩に余韻が残った。それは、痛みにも似た重みだ。

夜、仙台市に戻った。営業を早くも再開した中華料理店に入った。隣のテーブルでは、関西地方からやってきたと思われるテレビ取材班が酒を飲んでバカ騒ぎをしていた。耳障りな言葉が飛び交っていた。不愉快だった。南三陸町の現実と激しいギャップを感じた。

「身内が犠牲になった人もいるんだ。ここは被災地なんだぞ。場所を考えろ!」土方さんが吠えた。その声が、いままさに被災という現実と闘っている東北の人々の慟哭のようにも聞こえた。

※すべて雑誌掲載当時

(初沢亜利=撮影)