政治家をやった経験からすると、やろうと思えば権力は簡単に濫用できる!
民主国家における選挙の意味は、政策選択という文脈で語られがちだけど、本質的な意味はそこではない。自称インテリは、選挙になる度に、有権者に対して、「きっちりと政策を吟味しろ」と言う。しかし、政治家の、候補者の掲げる政策がいかにいい加減なものか、前回のメルマガ(橋下徹の「問題解決の授業」vol.16)で書いた。もちろん政策選択の面を否定しないが、選挙でより重要なことは、政治権力者の首を刎ねること、政治権力者を政治の場から退場させることだ。
政治権力者を退陣させるというのは、本当は至難の業。世界各国の内戦を見てよ。もう殺し合い。シリアだって、南スーダンだって、酷い状況。つい先日のトルコのクーデターだって、あそこまで仕掛けないと、本来政治権力者の首を刎ねる、退場させることはできない。北朝鮮の将軍様だって、なかなか退陣はさせられない。
政治権力者は強大な生の武力を保有している。この武力をもって、国民を押さえつける。武力は軍隊だったり、警察だったり。これが政治権力の本質だよね。だから政治権力が国民に対して横暴極まりないことをやっても、政治権力が本気になれば自分たちの身分を守ることができる。国民が抵抗、反乱を起こそうとした場合、政治権力は力で押さえつける。中国がそうだよね。
ところが民主国家は違う。有権者の「投票」という行動だけで、政治権力者の首を刎ねることができる。政治権力者を退陣させることができる。これは物凄いことだよね。
日本国民は、普段の生活で選挙なんてあまり意識していない。これはある意味、平和の象徴。もちろん政治が機能していないこともあるだろうし、税金の無駄遣いはあるだろう。一部の人にとっては日本の政治が不利益の原因になっていることもあろう。それでも日本の政治が、横暴極まりなく、国民の自由を奪っている状態ではない。
だから、日本人は、政治権力者の首を刎ねなければならない!! という切迫感を有しているわけではない。もちろん民進党、共産党などの野党連合やその熱狂的な支持者は、安倍首相の首を刎ねろ! 退陣だ! と叫んでいるけど、国民全体では、政治への不満はあるにせよ、切迫感まではない。世界の状況をみると、ほんと日本って平和だよね。
でもね、政治権力者がいつ国民の生命・財産を奪う行動に出るかもわからない。政治家をやった経験からすると、権力は濫用しようと思えば、簡単に濫用できる。役所組織だってしょせん人の組織。政治権力者が人事権を駆使して、自分に反対する者を排除していくことなんて簡単。そして本気になれば、自分に反対する者に危害を加えることも簡単。今の日本が、そこまでの権力の濫用になっていないのは、放っておいても実現する当たり前のことではなくて、社会システム全体の不断の努力の賜物なんだよね。徹底した社会の努力がないと、権力なんていとも簡単に濫用される。
そういう権力の濫用の恐れがある場合に、民主国家においては「投票」によって政治権力者を交代させることができる。首を刎ねることができる。僕の政治権力の使い方にも濫用があると感じている人も多かっただろう。だからこそ、僕は昨年の5月17日の大阪都構想住民投票によって、政治家としての首を刎ねられた。内戦にならず、誰一人の命も奪われることなく政治権力者を交代させることができる。選挙は凄い! 素晴らしい!
そのときに威力を発揮するのが報道の自由。まずは選挙の監視。後進国では、形の上では選挙をやるけど、不正な選挙で政治権力者が自分の身を守ることなんてしょっちゅうある。公正な選挙を実施するのも本当は大変なことで、この監視役は結局メディアなんだよね。
さらに政治権力者の権力の濫用状況を白日の下にさらし、有権者に伝え、有権者が権力者の首を刎ねる判断のお手伝いをする。これもメディア。権力の濫用は、一定ラインを超えると止めることができなくなる。一定のラインを超えて、選挙が機能しなくなればもう終わり。もう権力者の身分が武力で守られる状態になる。だからそうならないように、一定ラインを超えることを絶対に阻止しなければならない。
政治権力の濫用が一定のラインを超える前に、そのような政治権力者を有権者の投票行動によって交代させる。これこそがメディアの絶対的な使命だ。裏を返せば、政治権力者は自分の地位を安泰にさせようと思えば、報道の自由を制約する、もっといえば報道機関を掌握すれば良い。中国もそうだし、北朝鮮ももちろんそう。今、トルコもそれをやろうとしている。
だからこそ、報道の自由は、民主国家においては何が何でも守らなければならない。
※本稿は、公式メールマガジン《橋下徹の「問題解決の授業」》vol.17のダイジェスト版です。