インターハイ種目別優勝。それでもオリンピックは遠かった
宮さんは昔から、周囲に気を配る性格だったという。
「クラスに変わった子がいると、仲間はずれにされるじゃないですか。僕はそういう子にこそ興味をもって、仲良く接するようなところがあったようです。そこは母親に似ているかな。母は人を放っておけない、そんな人なんですよ」
共働きの両親は忙しく、彼が5歳になると体操クラブに入れた。オリンピック選手をたくさん輩出している「朝日生命体操クラブ」だ。
「当時の自分は体操を始めた、という記憶がないくらいの幼さですからね。『何か習い事を』という感じだったとは思うのですが、伝統のある厳しいクラブで、僕も自然とオリンピックを目指すようになりました。ただ両親は文武両道が基本で教育に厳しく、成績が下がるなら体操は止めなさいとも言われていました」
努力の甲斐あって、1999年のインターハイは跳馬で優勝。しかし、アスリートとして体操で生きていけるとは思えず、大学は経営学部を選んだ。
普通のサラリーマンにはなりたくない
中米・パナマで体操のナショナルチームを指導
「本当は政治経済に興味があったんです。もともと普通のサラリーマンにはなりたくなかったので、大学卒業後に、海外青年協力隊の体操隊員として、中米・パナマに渡りました。そこでは今までの価値観が全て揺らぐ程の経験をしました。でも、得たものは大きかったですね」
パナマでは、小さい子供からナショナルチームまでの指導をしていた。 しかしそこで、文化の違いから、今まで培った経験や価値観が全く通用しない、という洗礼を受けることになる。体操協会の上層部と指導の現場、さらに彼の「こうしたい!」という3つの歯車が、噛み合わなかったのだ。