次が「射」、つまり弓です。私の合気道の先生は弓道の家元でもありますが、弓の特徴は「的は襲ってこない」ことだとよくおっしゃっています。他の武道では必ず相手の攻撃にどう対処するかという問題設定がなされていますが、弓道にはそれがない。的に向かって心を鎮め、弓を引き、ただ放つだけ。矢を放つまで何時間かけてもかまわない。そこで求められているのは、敵に対する反応の速さや闘争心ではなく、自分の内面を精密にモニターして心身を整える技術です。

学校体育や競技スポーツでは、こうした技術はまず重んじられません。例えばボールの投げ方については外形的なフォームを指導しますが、身体をモニターすることは教えない。仮にそのフォームでどこかに痛みが出たら、それは身体の使い方に無理があるということです。身体のどこにも痛みや詰まりやこわばりのない状態を達成するためには、自分の身体の状態を精密にモニターする技術が要ります。でも、今のスポーツでは、逆に痛みを薬剤で抑えたり、「根性」によって耐えたりして「痛みを感じない」鈍感な身体を作ることで対処しようとする。痛みや不具合を感じることができないほどに鈍感な身体では、現実の危機を回避することはできません。

「御」は、「馬を御する」こと、つまり野生の異類とコミュニケーションする能力のことです。野生獣の巨大な力を統御し、それを人間の身体に同期させ、取り込む技術です。孔子は内陸の人でしたから馬を御する技術を重んじましたが、彼が沿岸部の人だったら波や風を御して船を操る技術を教養科目に選んだかもしれません。現代なら、動物の世話をすることも「御」のよい訓練になるでしょう。

最後の2つが「書」と「数」です。現代でも「読み書き算盤(そろばん)」は学びの基本とされていますが、孔子の言う「書」と「数」はそれとは少し異なります。ユダヤ教の神秘主義では数そのものに神秘的な力があると考えますが、現に数学史をひもとけば、アラビア数字を使った筆算法が「発明」されるまでは、一般人にとって計算ができるということは魔術に近いものだと書いてあります。

「書」もそうです。孔子の時代には文字そのものに現実を変成できるほどの魔術的な力が宿っていると考えられていました。古代の人たちは数字や文字の扱いを学ぶときも「この世ならざるもの」の切迫を強く意識していたのです。