衆議院議員 古賀 誠(こが・まこと)
1940年、福岡県生まれ。2歳のときに父が戦死。65年、日本大学卒業後、故鬼丸勝之議員の秘書に。80年、衆議院選挙で初当選。96年、運輸大臣に就任。自民党国会対策委員長、幹事長などを歴任後、2007年より自民党選挙対策委員長。


 

「私の浅はかな知恵で大変ご迷惑をかけた。辞めさせていただく」。7月14日、都議選の大敗北の責任論を巡って自民党総務会が紛糾、東国原英夫宮崎県知事擁立騒動の総括を求める声が出たとき、古賀誠・選挙対策委員長は耐えかねたように言い捨てて席を立った。

6月23日、自ら宮崎県庁を訪ね、テレビカメラの前で息子ほどに若い東国原知事に出馬を要請。「総裁候補にしていただけるなら」という高慢な要求にも鷹揚な姿勢を崩さなかった。知事の人気を借り、開かれた自民党イメージをつくる。逆風を追い風に変える乾坤一擲の奇策だったが、博打はすべて裏目に出た。

フィリピン・レイテの戦場で父を失い、戦後のどん底を母子で生き抜いた福岡の“川筋もん”に本来、客寄せパンダに頼る軟弱な発想はなかった。柄に合わぬ下策を弄したのは、タレント候補を多数擁立した小泉内閣の「劇場型」郵政選挙の強さを目の当たりにした後遺症か。2005年、郵政民営化法案に反対しながらも、党公認を得るために土壇場で採決を棄権するという屈辱的選択を経て自民党にとどまった。

07年、安倍内閣の参院選惨敗後、福田康夫総裁就任時に、選挙対策委員長という新設の役職を自ら志願して得たのは、浅薄な人気に頼る小泉チルドレンから小選挙区を奪い返し、正攻法選挙で勝てる強い自民党をつくり直すためだった。だが、そのために自らタレント知事を担ぐという矛盾に陥った。

麻生内閣解散前夜の派閥総会で古賀氏は声を震わせて誓った。「王道を外れた選挙は今回やらずに原点に返って戦っていきたい」。

7月22日、麻生首相は古賀氏の辞任の意思を尊重しつつ、選挙対策本部長代理に起用。戦いは続きそうだ。