元夫の弟は、旧制高校でフランス語を学ぶエリート
自伝では「覚えていない」。取材では「不思議な魅力を感じていた」。どっちなんだ。
コープランドが実際に千代に取材していることを考えると、本人が自伝とは異なる言葉を残していたことも想像される。覚えていないふりは、案外、照れ隠しだったのかもしれない。
こうして、結婚まで視野に入れていたカツの勧めに、継母のリュウは気乗りしないながらも承諾する。気乗りしないのも無理はない。10日で帰ってきた娘を、今度は同じ家の次男のもとへ送り出すのだ。
ちなみにドラマの保の帰省は夏休みだが、史実の千代が京都へ向かったのは1916年の正月休み明けである。
では、忠とはどんな男だったのか。『第三高等学校一覧 大正5年9月起大正6年8月止』(第三高等学校、1916年)によれば、忠は38人いる三年丙類のクラスに名前がある。丙類である。フランス語である。三高の丙類は、フランス語を第一外国語とするコースだ。いやあ、オシャレですなあ。
当時の高校生(旧制)といえば、制服を着て帰省しただけで、地元の人々から尊敬の眼差しを向けられる存在だった。現代の高校生とはまったく別種の、本物のエリートである。しかも、学んでいるのがフランス語だ。
“魅力的な女性が来た”という状況だが…
……想像してみよう。
帰省先の岩国。久しぶりの実家で気が緩んだ三高生が、ふとした弾みで口にする。「Mademoiselle, vos yeux sont deux lanternes dans la nuit d’Iwakuni……おっと失礼。最近ヴェルレーヌを読んでいて、つい」
いや、絶対にこんなことしてそうだ。ふとした弾みに千代が「不思議な魅力」を感じたのも、わからないではない。少なくとも、筆者のように仏文科の女子大学生へ「ああ、ボクもフランス文学好きですよ、セリーヌとかブラジヤックとか……」と話しかけ、虫けらを見るような目で見られた男とは、わけが違うのである。
ともあれ、京都に出た千代は、忠が住んでいた知恩院の下宿で、一緒に生活を始めることになる。状況を整理してみよう。
年頃の男が一人で暮らす学生下宿に、美しいと評される年の近い女性が、自分の世話をするためにやってくる。しかも、親からは「将来は結婚するんだ」と言い含められている。おまけに、相手は兄貴と昔いろいろあった人である。
いとこ。許嫁。兄の元嫁。同居。そして年頃の女性。
属性を盛りすぎだ。もはや昼ドラどころではない。深夜アニメである。タイトルをつけるなら『兄の元嫁が下宿に来た件』だ。
ここで忠が「うっひょ〜、俺にも青春が‼」と小躍りしても、誰も責められまい。しかし、忠は小躍りしなかった。さすがエリートである。ちゃんと自分を律することにも長けている。

