1度目の結婚生活はたったの10日間
1911(明治44)年11月10日、藤村家から朱塗りの酒樽と仲人が千代を迎えに来るという知らせが届き、リュウが千代の髪を結ってくれた。鏡の中のリュウの目に涙が溜まっていたが、14歳の千代には自分がこの家からいなくなるという実感がなかった。
月明かりの中、千代は提灯を下げた仲人夫婦に伴われて臥龍橋を渡り、鉄砲小路の藤村家まで歩いた。これが自分の嫁入りだとは信じられなかった。
わずかな着替えと学校道具を持って藤村家に迎えられた千代は、亮一の部屋に案内された。しかし亮一は毎晩どこかへ出かけ、千代と言葉すら交わさなかった。亮一は夜な夜な芝居小屋に通っているらしかったが、それを咎める者は誰もいなかった。
食事のたびに慣れ親しんだ箱膳を思い出し、生家が懐かしくなるばかり。とうとう千代は下校時に錦帯橋を渡らず、錦川沿いを歩いて川西の自宅へ戻った。
「時計の間」に横たわる俊次はわずかの間に衰弱し、千代に何も聞かず、藤村家へ戻れとも言わなかった。すぐにリュウが藤村家に出向き、「千代は父の看病のために戻った」と伝えてくれた。
こうして藤村家での名ばかりの結婚生活はわずか10日間で終わった。千代は、血を吐いて病み衰えた俊次の看病に専念した。
父の死に「やはり何となく嬉しかった」
千代の看病も空しく、1913(大正2)年2月8日、珍しく岩国に雪が積もった日、俊次は路上で包丁を振り回し、大量に吐血して息絶えた。57歳だった。
「私は涙を瀧のように流したが、やはり何となく嬉しかった。私はもうどんなことでもできる」(『模倣の天才』より)
俊次の死後、宇野家では笑い声が絶えなくなった。子どもたちはでこ廻し(人形芝居)を、リュウは浮かれ節を楽しみ、千代はこれまで俊次に隠れて読んでいた新聞や小説を自由に読めるようになった。
雑誌『第三帝国』『青鞜』などを読みふけり、『女子文壇』などへの投稿も始めた。
1914(大正3)年4月、千代は岩国高等女学校を卒業し、リュウの実家がある川下村の尋常小学校(現・岩国市立川下小学校)の代用教員となった。第1次世界大戦が始まる直前のことである。
