徳島県人会は高名な歴史学者を頼った
1926年には、徳島県出身者によって『在阪徳島県人会雑誌臨時刊行 蜂須賀正勝公顕彰号』(在阪徳島県人会事務所、1926年)が刊行されている。この冊子、冒頭の刊行の辞からして小説と事実がごっちゃにされて汚名ばかりが伝わっていることに怒りを隠さず「この真相を明にすることは阿淡に生を享けたものの勉めねばならぬことと思う」とまで書いている。
そんな冊子に文を寄せているのは、徳島県出身で当時の高名な歴史学者であった喜田貞吉である。
小松島に生まれて第三高等学校から帝国大学で歴史を学んだ「文学博士」である喜田は体験を交えて、学者らしい筆致で文章を綴る。
我が阿波の国は、十郎兵衛(浄瑠璃『傾城阿波鳴門』の人物)と小六とによって有名になって居るのだ。そしてそれが、やれ海賊だ、強盗の張本だなどと言はれて居るのだから、阿波国人たるもの、豈に恐れ入れざるを得んやだ。
そして、このたび大阪に正勝の墓碑が建立されたことをきっかけに記念帳(この顕彰号)を発行することになったから、なにか書けと依頼されたので「蜂須賀小六強盗一件に就いては、歴史家として一言なき能はざる機会となった」とし、筆を進める。
「冤罪」から一転「強盗もしたであらう」
もちろん、最初は矢作橋での邂逅の一件の全否定だ。もともとは江戸時代の俗書に過ぎなかったのに、それを火元に今では映画にまでなっていることを喜田は批判。ついには、こう結論づけるのだ。
蜂須賀小六は強盗の張本だなどといふ事は、小六其の人に取って冤罪の甚しいものであるのみならず、我々阿波国人に取っても大いに其の侮辱を感ずべきものであって、藩祖の為にも、亦我々自身の為にも、十分其の冤を雪がねばならぬのである。
……ここまで読んで、蜂須賀家や県人会の人たちは喜んだろう。「いやあ、やっぱり高名な喜田先生にお願いしてよかった!」と。
ところが……次の段落になった途端に喜田の筆致は豹変する。次の段落の冒頭は、こうだ。
併しながら「果たして我が正勝公は決して強盗を働かなかったか」と反問されて見ると、之に対して自分は決して「然り」と答へることは出来ない。
ここからの喜田は、前半の反証よりはるかに筆が冴えている。自分はむしろ進んで「正勝公も恐らく強盗もしたであらう、人殺しもしたであらう」と答えるという。そもそも「切取強盗は武士の習ひ」とは事実を喝破した名言であり、戦国の武士で切取強盗すらできない者がいたら、それは甚だしい腰抜けだ。人殺しは平時なら大罪だが、今日でも戦時の敵に対しては公然と許され、胸に金鵄勲章を光らせる殊勲者がいるではないか。戦国時代は常に戦時だったのだ、というわけだ。

