盗賊説は“名簿の一行”から始まった

こうした描かれ方はどこから出てきたのか。ここで注目したいのが、寛永年間に小瀬甫庵によって書かれたいわゆる『甫庵太閤記』である。ここでは矢作橋の逸話は触れられていない。正勝が登場するのは、後に墨俣一夜城として知られる場面である。

ここでは墨俣をどうするべきか相談してきた信長に、秀吉が答える中で正勝が登場している。

憚る所もなく存知寄し事を申上けるは、当国には夜討強盗を営みとせし其中に、能兵共多く候、然間篠木柏井科野秦川小幡守山根上かは、并に北方の川筋に付て左様の兵を尋記し、其者共を番手にし、彼要害に入置給んやと申上しかは、尤也とて、名字を記し付見給ふに、千二百余人に及へり、其中にても武名も且々人に知られ番頭にも宜しからんは、稲田大炊助、青山新七同小助、蜂須賀小六〈後号彦右衛門〉同又十郎、河口久助、長江半丞、加治田隼人兄弟、日比野六大夫、松原内匠助等也(近藤瓶城 編『史籍集覧』第6冊 近藤出版部、1919年)

筆者訳:
(秀吉は)遠慮する様子もなく自分の考えを申し上げました。

「当国には夜盗や強盗を生業にしている者たちの中に、腕の立つ頼もしい兵が多くおります。そこで、篠木・柏井・科野・秦川・小幡・守山・根上川、ならびに北方の川沿いに散らばるそのような者たちを捜し出してリストアップし、彼らを警備兵としてその要害に入れ置いてはいかがでしょうか」

と申し上げたので、(信長公は)「もっともな考えだ」として名簿を作成させてご覧になると、一千二百余人にも及びました。

その中でも武名がそれなりに知れ渡っており、守備隊長としてふさわしい者は、稲田大炊助、青山新七と同小助、蜂須賀小六(のちの彦右衛門)と同又十郎、河口久助、長江半丞、加治田隼人兄弟、日比野六大夫、松原内匠助らでありました。

このように甫庵は、小六を「夜討ちや強盗を稼業にする連中の中でも、特に腕が立って守備隊長を任せられる者」として、秀吉が名を挙げた一人として扱っているにすぎない。いわば、ちょっと柄の悪い業界から引き抜いた現場責任者候補の名簿である。本人が街道で追い剥ぎをしていたとは、どこにも書いていない。

蜂須賀正勝像(模写)
蜂須賀正勝像(模写)(画像=東京大学史料編纂所データベース/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)