“明治天皇に先祖は争えんと言われた”という逸話

ところが、この名簿の一行が、170年あまりの時を経た江戸時代後期には「手下千人を率いて落ち武者の身ぐるみを剥ぎ、民家に押し入って財宝を奪う強盗団の首領」にまで育っている。「その業界にいた人」が「その業界のドン」に出世しているのだ。秀吉の出世物語を盛るついでに、小六のほうも勝手に出世させられていたわけである。

こうして江戸時代に完成した「盗賊・蜂須賀小六」は、明治になっても消えなかった。それどころか、とんでもない場所にまで入り込んでいたとされる。

徳島藩最後の藩主で、明治になって侯爵となった蜂須賀茂韶が参内し、応接室で待たされていたときのこと。卓上にあった紙巻きタバコを、つい一本失敬してしまった。そこへ入ってきた明治天皇はタバコが一本減っているのに気づき、嬉しそうにこう言ったという。

「蜂須賀、先祖は争えんのう」

……この逸話、ネットでもまことしやかに史実として描かれている。

とはいえ、この話を史実として信用することはできない。

司馬遼太郎『街道をゆく43 濃尾参州記』(朝日新聞社、1996年)にも、この逸話は触れられているが「出典が思い出せない」とことわっている。

1873年の明治天皇
1873年の明治天皇(画像=Kejerochi/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

「学者に依頼」後日談もつじつま合わず

さらに、この逸話には「気にした蜂須賀家が歴史学者に依頼して、小六が盗賊でないことを立証させた」という後日談がつく。

司馬も、蜂須賀家が渡辺世祐に依頼したことには触れているが、こちらも「らしい」である。

しかも、渡辺の『蜂須賀小六正勝』が出たのは1929年のことだ。明治天皇が亡くなってから17年、茂韶が亡くなってからでも11年が経っている。天皇の一言に慌てた家が学者に駆け込んだ、というには、ずいぶん気の長い話である。

そもそも、渡辺の本の序文には「昭和2年秋、偶然のことから尾張海部郡蜂須賀村に遊んで、正勝発祥の跡を見て、かねてから抱懐した考を纏めて、正勝の事歴明かにせんとするの志を起した」とあり、蜂須賀家に依頼されたとは一言も書いてないのである。

いずれにしても、こうした逸話をみるに、蜂須賀家は泥棒や強盗の類いから成り上がった小六を祖とし、その子孫が大名となり明治維新の後は侯爵となった、とんでもない成り上がりの家系である……という風に世間はみていたのだろう。

このことは、蜂須賀家はもちろん、同家が長く治めた阿波、淡路の人々にとっても許容しがたいことであった。