“平和時代の思想で、過去の事象を批評してはならぬ”

さらに喜田は、軍用金集めの強盗なら近ごろもあったと、1885年の大阪事件を持ち出す。自由党左派の大井憲太郎らが朝鮮の改革派を支援するクーデターを企てた事件で、その資金集めに強盗を働いた者がいた。しかし、世間は彼らをただのこそ泥とは見なさなかった、と。

極めつけに、小六を強盗と言うなら、手引きして一緒に稼いだ日吉丸、すなわち太閤秀吉も同罪ではないかと切り返す。お隣の国には「馬賊上り」の大偉人が国家の重鎮として活躍しているではないか、とまで書く(満州の張作霖のことである)。

要するに、正勝も強盗や人殺しくらいやっていただろう。だが、それが悪いことか。当時はみんなやっていたのだ。だから「後の平和時代の思想を以て、過古(注:原文のとおり)の混乱時代の事象を批評してはならぬのである」というわけである。

思えば喜田は、1911年の南北朝正閏問題(南北朝時代の皇統のどちらを正当とするかの論争で、当時の政争の火種にもなっていた)で、国定教科書の記述は南朝が正当とすべしという、山県有朋らの圧力に対して「併立とすべし」と自説を曲げず、文部省編修官を休職に追い込まれた人物だ。国会で問題にされても学説を曲げなかった碩学に、地元の県人会から頼まれたくらいで「小六公は潔白でございます」と書かせるのは、そもそも無理な相談だったのかもしれない。

400年目にようやく得た“最古参の相棒役”

もっとも、ご先祖様を讃えるための記念の冊子で「強盗も人殺しもしたでしょうね、やれなきゃ腰抜けですから」ということを書かれてしまったのに、そのまま掲載した県人会の面々の度量も目を見張るものがある。

過去を今の物差しで裁くか否か。銅像の撤去が議論される現代にもそのまま通じる問いを、喜田は100年前、よりによって顕彰号の中で投げつけていたのである。

結局のところ、小六を盗賊にしたのは、戦国の史料ではない。秀吉の出世物語を面白くしたかった江戸の作者たちと、それを平和な時代の物差しで面白がり続けた後世の読者だった。

では、実際の小六は何者だったのか。尾張国海東郡蜂須賀郷(現・愛知県あま市)を本拠とした国衆で、美濃の斎藤氏や尾張の織田一族のもとを渡り歩いたのち、秀吉を最も古くから支えた一人となった人物である。

中国攻めでは、槍働きよりも、毛利方との講和交渉のような調整役として重用され、播磨龍野の城主となった。四国攻めの後には阿波一国を辞退して息子に譲っている。どう見ても、手下千人を率いて民家に押し入る親分の履歴ではない。若い頃に切取強盗を働いたかどうかは、喜田の言うとおり、当時の武士ならやっていても不思議ではない、という以上のことはわからない。確かなのは、「その業界にいた人」の名簿の一行が、なぜか後代に「盗賊の親分」という役を割り振られてしまったことだけである。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の小六は、変わってしまった秀吉に面と向かって“お前は変わった”と言わんばかりに語りかけた。盗賊の親分としてではなく、最古参の相棒としての去り際である。400年目にしてようやく、小六は本来の役をもらえたのかもしれない。

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